愛し合うという快感を女は知っている。それはどの学校でも習う事はなく、一対一の人間として向き合った時に知りうることだ。
本来、俺はそんなものは知らない。今も本当にそんな快感があるのかすら疑わしくなるが、疑似でも愛し合った女はそれを知った途端眼を輝かせ、いつでも星の輝く真夜中のようなロマンチックな倦怠を美しく彩り始める。
快感の名前をつけたが、案外違うのかもしれない。俺はいつだってそれを知らない。
科学的な事は知っていても、精神的な機微はまったく分からない。わかろうとも思っていないのかもしれない。下半身の我慢を紐解いてくれる第三の手があればいいだけで、それを直視したくないがために女しかしらない知識に眼を向けるのかもしれない。
自己嫌悪からそんな神秘的なものを一夜限りの女に見出しているのかもしれない。だとするとなんとも女々しい事だとも思うが、自分の中にそれなりの人間性がある事に少し驚く。世間一般から見た俺というイメージは殊更違うとも言い切れないからだ。それに左右されたわけではなく、当たり前のレンズ越しに見られたというだけで、影響を受けたわけじゃない。そんな人間とも思えなかった。
最終的に俺が到達するのは自分の事だ。自らの思考も動きも行動も運命も、生きていなければ意味がない。生きるためならばどんなことでもしてきたのは、つまり思考が止まる事が恐ろしい事だったからだ。
思考を停止させる異常事態は俺には無縁だと思っていた。特に道徳的な問題の事故はありえないと。
俺は不道徳というものを全て知っていると思い込んでいたが、一つ欠落しているものがあった。



海の中に財宝が眠っているという噂から真実を引きずり出そうとしていた俺は、どうせ海賊が沈めた宝箱だろうと高を括っていた。そしてそれもまた泡のように儚いくだらない人の会話から出た虚偽だろうとも思っていた。
フェイタンはあまりに抽象的な噂話に眉を顰めて、協力しようとはしていなかったが、フィンクスは楽しそうに話に乗ってきた。

「おもしろそうだな、俺も協力するぜ団長」

予定の開いていたマチにもその話をしてみるが、フェイタンと似たような反応だった。

「そんな根も葉もない噂なんだろう? あたしは行かない」

もしかしたらマチの勘が働いているのかもしれないとも思ったが、丁度夏も終わりでまだ暑い、海の一つでも見てやろうと思い、バカンスのついでで財宝さがしに出かけた。
男二人で海辺へ行くなんてどうだろうかと思っていると、フィンクスは欠伸を噛み殺しながら列車の中で大きないびきを立てて眠り始めた。周りの目を気にするのは変わりないが、当初とは違った頭痛を覚え大きなため息を吐いた。
あまりにも煩いので眠るフィンクスの鼻に煙草を詰め込み暫く放置していたら、まるで死から逃れてきたような剣幕で飛び起き、眠気も吹き飛んでいた。
どうやら最近眠っていなかったようで、海の近くならば波音くらいだろうと、子守唄がわりにしてやろうとも目論んでいる事を、列車を降りて初めて知った。

「あんなに眠るのなら違う席を用意したのにな」
「悪かったよ、まあ、鼻に煙草詰められるよりかそっちの方がいいけどな」

帰りは別々の席にしてくれと向こうから頼んできたのでそうする事にした。隣国のリゾート地から少し離れた海辺は、中々の景観で人も少なく海も綺麗だった。潮風が肌を撫で、隣でまだ煙草の残滓に苛まれているフィンクスの眉間の皴を通り抜けていく。

「で、どうするんだ団長?」
「そうだな、地道に情報収集でもしてみるか」
「そういうのはシャルナークにでも任せとけよな。・・・団長、俺適当に泳ぎながら探しててもいいか?」
「ああ、構わないが」
「よっし! んじゃひと泳ぎしてくるぜ!」

腕を伸ばし肩甲骨を回しているフィンクスの背を見送りながら、あの強面では人とのコミュニケーションを図るときに障害になってしまうので、適当にあしらおうと思っていた俺としては、自ら海に入ってくれるならこれ以上無い事だと踵を返した。
南国の木々が立ち並ぶ道路とは裏腹に、陸の奥深くへ歩いていくと海などないかのような山々が立ち並んでいた。
建物はそんな木々の隙間に、自然の中に住まわせてもらっているというように立ち並んでおり、そこには都会のような人の気配は全く感じられなかった。
下の方には店があり、坂を上るたびに人の気配はなくなっていく。丁度出かける様子の女性に笑顔で声をかけるとたちどころに情報が漏れてきた。
あまり人の来ないこんな場所では、見ず知らずの人間に対して警戒心を第一印象で感じれば、貝のように口を閉ざして泡一つ出さないが、最初がうまくいけば泡どころか真珠まで吐き出す始末だ。
ほぼ、海底の底に眠る財宝というものは伝説に近いものだった。あの海には宝石が沢山沈んでいるから綺麗なのよ、と、子供に話す程度の話で、海賊やら泥棒やらきな臭い情報は全くなかった。
もう少し歳のとった人間に話を聞きたいとキョロキョロと見渡していると、小さな門から一人の男が出てきた。
少し気難しそうに眉間に皴を刻み込み、口には髭が生えていた。年は40~50くらいに見える。どこか明確に出かける様子ではなさそうで、ただ散歩に出かけようとしているだけに見えた。

「こんにちは」

いつもの営業スマイルを向けても、彼の表情は崩れなかった。第一印象はあまりよくないみたいだと思ったが、向こうも門を閉めたままその場を動かない所を見ると、話を聞いてくれそうな様子だった。

「何か?」
「いえ、少し噂で聞いたんですが・・・」

少し身振りを咥えた方がいいかと思ったその時、男が出てきた家の二階のカーテンが揺れたのが目の端で分かった。
一体なんだと、はっきりと視線を向けようとしたが、男の鋭い眼光がそれを許さなかった。
変に家に視線を送っても怪しまれるだけだと、手短に海に眠る財宝について尋ねた。

「ご存じありませんか?」
「いいや、知らないな」

このあたりの人間ならば、それなりに知っているはずだがと、笑みを浮かべたまま胸中で舌打ちをした。この男何か知っているのか?
ただよそ者を訝しんでいるだけのようにも見えるが、その不機嫌そうな顔が更に歪む事態が発生した。
俺の目の前の家の窓があいて、二階の窓から身を乗り出す姿があった。

「お父さーん!」
? どうした?」
「海に散歩に行くなら、あの貝殻とってきて! あの綺麗なやつー! お願いねー」
「ああ、わかった。わかったから中に戻りなさい!」
「え? どうして戻らなくちゃいけないの?」
「そこから落ちてしまいそうだからだ!」
「はーい!」

男が振り返り、手を振って娘に叫ぶ。娘はすぐに顔を引っ込めて窓を閉めて、カーテンもしっかりと閉ざした。
ふー、と溜息を吐いた男が、もうこれ以上の話はないだろうな、というような顔をしたので、俺はすぐにその場を後にした。
そしてまた振り返り、その家へ向かった。あの男は何処へ行くのか知らないが、どこかきな臭い臭いを感じる。あんな風にあからさまに知らないふりをされると、どんな些細な事でも暴き出してやろうという気になる。
どうせ財宝などありはしないだろう。フィンクスと共にただの暇つぶしとして、異国のこの海辺へ散歩をしに来たと思えばいい。
時間を感じさせるようなあの建物は、全てのカーテンというカーテンが閉め切られており、壁にも蔦が這っている。
だが、庭だけは手入れをしているようで、綺麗な緑色の芝生の海が広大な青々とした海の前で波打っていた。
不法侵入をするまでの事だろうかと、若干冷静になりながらも男が占めた門に指をひっかけ暫く思案していると、控えめにドアを開ける音が聞こえた。
娘が出てきたらしい。彼女は俺の事を見ていたらしく、ずっとそこにいるのが不思議だったらしい。

「何か御用ですか?」
「いいや・・・ただ、不思議な家だなと思って」
「何が不思議なんですか?」
「庭だけ綺麗だから」
「お父さんが頑張って綺麗にしたんです」
「そう」
「あの・・・」

少し迷うような声と視線に、俺は素直に名乗った。

「クロロ、クロロ・ルシルフル」
「クロロさん何してるんですか?」
「ちょっと調べていることがあるんだ。あの海に眠る財宝の噂の事なんだが、」
「ああ、知ってますよ。あの海があんなにきれいなのはきらきらした宝石が海底に落ちてるからだってよく言ってました」

やはりあの男は知っていたのだ。だが、娘の様子を見るに、単なる意地悪なだけだったようだ。
娘は海を指差して言葉を終えた後、ぱっくりと口を開けたまま暫く呆然としていた。何か見えるのかと指差した方角、海を見るがただの広大な海が広がっているだけだ。

「どうかした?」
「どうして、海はあんなにきらきらしてるんでしょうか?」

ぱちり、と瞬きをして娘は俺を見た。そして続ける。

「ねえ、クロロさんどうして? 何故あんなに光っているの?」
「太陽の光が反射しているからだよ」
「どうして反射するの?」
「海面は鏡のようなものだからね。波があるときは、ああやってきらきらしているけど、波が無くなって平面になったら空がうつるよ」
「そうなんだ」

ロマンチックな回答を期待していたのだろうかと顔を見たが、娘は素直に頷いて瞬きを繰り返していた。そして暫く海を見つめた後、また俺を見上げて問い掛けた。

「クロロさん、月にはウサギがいるってよく言うけど、どうして? 本当は住んでいないのに。誰が最初にそう見たの?」
「もともとは伝説だ。倒れた老人の為に自分を食料にするために火の中に飛び込んだ。その老人は帝釈天で、ウサギのその捨身の慈悲行を後世まで伝えるため、ウサギを月に上らせたと言われている」
「クロロさん、帝釈天って何?」

海から月へと飛躍した後は次は帝釈天の話に変わった。俺はもしかして、面倒な奴に絡まれているのではと気が付いたが、きらきらとした瞳に、教えるという快感を僅かに覚えながら話をつづけた。

「どうして空は青いの?」
「どうして哲学って言葉ができたの?」
「どうして地面は土なの?」
「鍵穴説って何?」

小さな子供のような疑問を丁寧に拾い上げていれば、気が付つけば空のちぎれた雲は赤く染まり、海の光も赤々として来ていた。俺は門の前に腰をおろし、一緒に腰を下ろした娘、と共に長時間話し続けていたようだった。ふかふかの椅子ではなく、壁の突起したコンクリートに何時間も座っていたというのに、何故こんなにも長居してしまったのか。

「帰らなければ」

立ち上がって歩き出すと、背後からが話しかけてくる。
さようならでもなく、ありがとうでもなく、またマシンガンのように発射される疑問の一発だった。

「どうして帰るの?」
「俺がそう判断したからだ」
「・・・・・そう・・・そっか、わかった」

俺の答えに不服そうな顔をするかと思ったが、神妙な顔つきになり、暫く俯いた後すっきりしたような顔をあげて、夕暮れに染まりながら微笑んだ。





『不思議な人がいた。クロロさんっていう人だった。ルシル、なんとかっていうのが苗字だった。忘れてしまった。海は鏡だって言ってた。でも家の鏡の方がよく見える。変。波があるから? 波が無くなればいいのに。海を歩きたい。どうすればいいのかな』

そんな走り書きに似た日記を発見したのは、の部屋の引き出しの中だった。まるで空き巣だと思いながらも、父親が不在の今日家に上がらせたアイツの責任だ。
外はまだ明るく太陽がさんさんと輝いている。が無くなればいいと適当に追い払おうとしている波は太陽の光を反射してスパンコールのように輝いている。眼下の芝生も白く光り、何とも世界は眩しいものだとカーテンを閉める。

「つまり、クロロさんはお宝探しにきたんだね」
「そう、まあ、それも口実だな」
「ふうん、変なの」

彼女は今まで見たことのないタイプだった。静かなさざ波だけしか聞こえないこの場所で、人とあまり接触しないためか、好奇心が異様に育っていた。俺を簡単に家にあげ、簡単に部屋に残し、簡単なお茶を出して身を乗り出して不躾に俺を観察している。盗まれるものはなさそうだが、もう少し警戒心を持ってもいいのではないか。

「ねえ、その額の何? タトゥー?」
「そうだ」
「どうしていれたの?」
「さあ、どうしてだと思う?」

ここ数日財宝の事など忘れてこの家に何度か足を運んでいた。このという生物が、俺にとても興味を湧かせてくれた。そしてその中で分かったことと言えば、答えたくない質問は答えず、逆に問い掛ければ黙してしまうというところだった。
俺の心の機微を汲み取っているのかと思ったが、はうんうんと唸って身体をくねくねと動かし、違う質問を投げかけた。

「どこに住んでるの?」
「遠いところだ」

本拠地、アジトならあるが、の思っているような住んでいる場所はどこにもない。ここと言えばここだし、地球の裏側と言えばそこにもなる。そういったものに執着しない俺は、昨日と同じく部屋に置いてある椅子に座るを見て眼を細める。
ぶらぶらと足を動かして、ニコニコと俺を見ている。

「ここ最近ずーっと話しててわかったけど、クロロさんはお父さんより物知りなんだね!」
「ああ・・・」
「お父さんはね、私が聞いても最近は何も答えてくれなくなっちゃったんだ。聞きすぎたのかもしれない。でも分からないし・・・前はね、こんな所に住んでなかったのよ。もっと遠くで・・・人が沢山いた気がする。写真はないけど、なんとなく覚えてる。クロロさんもそういうところから来たんでしょ?」
「ああ」
「いいなー、私ね、学校っていう所に行ってみたい。そこで先生にいっぱい質問してみたかったの。だからクロロさん先生みたい」

けたけたと笑うに、脳裏に今は仕事に出かけた男、の父親を思い浮かべる。気難しそうに顔を固め、に声を荒げて質問の答えを叩き返す。
頭がおかしい、というよりもあまりにも子供らしい。殊更変な所は見当たらないし、むしろこれだけ探求心があるのならば、それなりの博識さを備えるのではないだろうか。
父親が何故、娘の好奇心をこんな場所で閉じ込めてしまっているのか分からない。

「・・・分からなければ聞けばいいのか・・・」
「そう!」
「なら、、何故お前はこんな所にいるんだ? どうして学校に行かない?」
「お父さんが駄目だって・・・言うんだけどね・・・」

言いよどみ、そろり、と、棚の上に置いてある写真立てに視線を向ける。そこには小さなと気難しさの仮面を外した父親、そしての母親らしき人物が三人で見知らぬ場所でうつっていた。

「多分、お母さんがいなくなっちゃったのが原因だと思う・・・」
「出ていったのか?」
「お母さん、旅行が好きだったから・・・」

やみかけの雨のような声に、なるほどと息を吐いた。このはおそらく母親そっくりなのだろう。似たような好奇心をもっていて、それが仇となっていまだ帰ってきていない。父親は娘までいなくなられては困ると、好奇心をくすぐるものを持たないように、こんな都会から離れた場所を選んだのだろう。

は好きなのか?」
「分からない、行ったこと無いから。でも行ってみたいって思ってる」

唇を尖らせて斜め上を見た後俺を見たその瞳が、吸い込まれそうな程きらきらと輝いていて、思わず連れて行ってやろうかと口を開きかけた。ゆっくりと開いた口に手をあてて、自分が何を口走ろうとしていたのかわかった。
じっ、とを見る。彼女はまだ笑っている。俺は手の中に本を出現させた。


「何ですか?」
「・・・散歩に行かないか?」
「えー、でもお父さんに怒られるしなあ・・・」
「夜まで帰ってこないんだろう? 少しくらい外の空気を吸った方がお前の為にもなる」

暫く考えた後、座り慣れた椅子から腰を上げて部屋から出ていった。実際は俺の為だった。このの部屋にいると、この殺風景で、年相応ではない部屋にいると、なんとも言えない気分になりそうだったからだ。ほんのわずかなズレが生じて、俺のこれからの人生に大変な後悔に似た尾を引きずる事になりそうだったからだ。