目隠しをした男が、眼を開けているのか閉じているのか分からない。盲目と言うわけではないのだから、きっとこちらの光は届いているはずだ。天気のいい日に上を見上げて瞼を閉じても、太陽の赤々とした熱の光は網膜に届くのだ。
フェイタンは太股に突き刺したナイフを抜いて、次は何処を刺そうかと悩んでいた。
舌を噛み切って死なすわけにはいかないので、口には猿轡もくわえさせている。
男が動物的な悲鳴をくぐもらせながら、痛みに耐えて首を振っている。両手両足を椅子に縛っているので動けはしないだろう。
ガタガタと椅子が動き、コンクリートの冷たい床がよく鳴った。ぴちゃん、と、昨日の雨の名残が水玉と鳴って薄暗いカビ臭い廃墟のビルの二階に波紋を広げていた。
窓硝子は割れ、その破片が残っている。水道管らしきものが天井からぶら下がり、蜘蛛の巣が部屋の隅に何個も広い面積で作られていた。剥き出しの針がねと、コンクリートの残骸だらけだ。
男がどんな男だったか、フェイタンは忘れかけていた。数少ない趣味と言えるであろう拷問の時間は、犬が何も考えずに走るのと似たような疾走感を味わう事が出来る。ゆっくりと相手に時間をかけて痛みを与えると言うのに、どうしてこんなにも時間が早く感じるのか、フェイタンには分からない。
後ろでに縛った紐がぎちぎちと鳴る。そろそろ切れそうか。と思ったが、切れたら切れたでその時反撃してくるだろう。その時はひと思いに殺してしまえばいいと思った。帰る時間が遅くなる。
ああ、だが駄目だ。
この男の頭の中にある情報を、出来るだけ絞りとらなければならないのだ。
もうすぐパクノダが彼女に与えられた任務を終えて此処に来る。その時に記憶を読み取り、団長に情報全てを報告する。
逃げられても困るのだと思いだしたフェイタンは、新しく紐を括りなおさなければと、近くのがれきの上に置いていたガムテープと紐を掴んだ。
その上からガムテープをぐるぐると巻いた。どうせ骨折しているのだ、あまり動かせないだろうし、もし外せても四肢全てを破壊すればいいだけの事。
男の背後に回って、両手を固定するように手首を掴んだ。
交差された手がいきなりがぱっ、と、貝のように開き、フェイタンに向かって念が飛ばされた。
少し愉悦に浸っていたのが悪かった。油断したフェイタンの身体に纏わりつくように、男の念が纏わりついた。攻撃された、と思ったのだが、身体に外傷は無い。
フェイタンは男の念を放った手首を反対側に捻った。

「何したか。」

猿轡をした男は痛みでおかしくなったのか、くくく、と笑った。フェイタンは怒りを煽る男を殺してしまおうかとカッと頭に血が上ったが、廃墟に反響する高い音に気がついた。
黒いスーツが薄暗い空間に溶け込むようだった。だが、フェイタンの服装よりは綺麗な肌と金髪が空間から浮き彫りになっていた。
腰に手を当てて、男の頭を鷲掴みにしているフェイタンに近付いた。

「パクノダ、コイツ殺してもいいか」
「いきなり何言ってるのよ。調べてからならもちろんいいけれど。」
「念かけられたよ」
「まあ・・・」

パクノダが困ったように髪をかきあげ、フェイタンと場所を交代するように背後に回り、男の折れて紫色に変色し始めた手首を掴んだ。痛みでまたうめいた。

「貴方の仲間はどこにいる?」

男はもちろん返事は無い。呻き声すら上げなかった。

「貴方のアジトは何処にある?」

男は返事をしなかったというのに、次の質問へ移行し、あまつ、何のおとがめも無い事に違和感を覚えた。尋問ならば、せめて猿轡を外すべきだろうと思った。
何か異変を感じて身体をよじるが、痛みだけで男には何も得る物は無かった。

「今、この男にかけた念は?」

がたがたと椅子が激しく揺れる。
男の鼻息が荒くなり、バランスを崩し前に倒れた。ガタンッと大きな音がした。
パクノダは男の手首を掴んだまま質問を続けた。

「その解除法は?」

だが、男はビルの残骸の角に頭をぶつけてしまったらしく、男が世界の傷口だと言う様に、そこから赤い血がゆっくりと湖を作るように広がって行った。
フェイタンは身体に纏わりつくような感覚にずっと苛々しているように眉間に皺を寄せていた。
きっと念は解除されていない。
思い込みかもしれないこの違和感は、フェイタンの長年の勘でそう思った。
チッと舌打ちを漏らして死体となった男の頭を踏みつける。そういうのはよくないと思うよ。彼女の声を思い出した。




家に帰ってみれば、相変わらずは書斎にこもりっきりだ。フェイタンが古くなった蝶番を鳴らして玄関に入っても気がつかないでいた。だが軋む廊下を歩いていれば、は気がついたかのように暫くして書斎から出てくる。

「おかえりなさい。」
、話がある。それまで一言もしゃべることはするな。」

がぱちり、と、眼を見開いて吃驚したような顔をした。だが素直に従う様に黙ってフェイタンの後ろについていくように黙って付いてきた。リビングのソファーにお互いに座り、フェイタンはゆっくりとの眼を見ながら話した。

「今日任務があった。相手の男に念をかけられた。」

が小さく口を開けて息を吸い込んだ。何かを言おうとした呼吸では無く、そんなことがあるなんて、という類のものだった。

「その念が・・・お前が好きと言うと、お前の記憶が無くなるモノだたよ。」

少しためらったが、愛する者といったパクノダの言葉をそのまま言わず、がと言う事にした。だが言った後で、それが愛する者がお前しかいないと言っているようでフェイタンは少し眉をひそめた。

「・・・あの、もう、いい?」

が確かめるようにフェイタンに赦しを求めた。フェイタンは顎を引いて許した。

「えっと、その・・・言葉を言ったらって、もっと他の単語も使えるじゃない?その単語限定なの?」
「いや、多分違うよ。」

フェイタンは眼を細めた。
たったそれだけ、言わなければいいだけの事だ。





「女が記憶を飛ばしたからと言って、その反動で死ぬやら、念が使えなくなるなんて事は無いのか」
「はい。」
「そうか、ならフェイには特別危険は無いと言う事か。」

パクノダがクロロに報告をしている傍に居たフェイタンに、クロロは口元に笑みを浮かべて視線を合わせた。

「よかったなフェイ。」

何がいいか。何処がいいか。
クロロはの存在をあまり快くは思っていない。むしろ旅団の男陣営は殆どが女の存在を良いものとは思っていない。
マチもどちらかと言えば男よりの考えだが、無関心と言った方がいいのか、あまり気に留める様子は無い。
シズクとパクノダはとの関係を面白がっているのか、ただの好奇心なのか、協力的な姿勢はよく見せていた。
だからパクノダがクロロに報告を終えた後出て行こうとした時に、同情するような顔をして見られた事に、殊更苛立ちはわかなかった。
そんなんじゃない。違う。そこまで特別な女じゃない。
その言葉を口にした事は無かった。胸中で自分に言い聞かせるように呟く。なのに、帰る場所はあの古びた瓦が敷き詰められた家で、軋む廊下の音を聞くと安心する。
書斎に籠った気配と空気がドアから流れ出る事に嫌悪感も覚えない。


に伝えたその日から、フェイタンは帰省本能が強くなったのか、家に足早に帰る日が続いた。
元より仕事はあまりなく、家に居る事が多かったが、仕事がある日に感じる焦燥感はフェイタンを驚かせた。
帰ればが書斎から出て抱きついてくるようになった。ソファーに座ればが膝の上に乗ってくる。手料理も手がこんだものがよく出るようになった。
相手の身体の一部にとにかく触れておかなければ装置で爆発するとでもいうように、家の中でもべったりとくっついて生活していた。
夜も昼も朝も関係なくセックスをした時もあった。がしがみつき、フェイタンに何か言いたげに喉の奥に息を詰まらせる。
だが、フェイタンから好きだの、愛してるだのと言うのはためらいがあった。念をかけられる前よりも、をよく呼ぶようになった。
頭を撫でられると瞳を潤ませ、鎖骨に額を押し付ける。
あーん、と言ってフェイタンの口の中にスプーンを差し込む。

「おいしい?」
「・・・まずくはないね。」
「そう。それはよかった。」

はにこにこと笑ってフェイタンを見ていた。少し小首を傾げるようにして、覗きこむように食べている姿を見ていた。
まるで子供みたいだと思って見返していると、少し頬を赤らめてふい、と視線を逸らした。
みぞおちが熱くなる感覚がした。この女を手放すのは、やっぱりフェイタンには出来ないのだ。

だがパクノダから話があると言って電話をかけられ、近くの喫茶店で二人で向き合っていた。フェイタンは何も頼まず、パクノダはミルクティーを頼んでいた。

「念の事なのだけれど、団長には別に報告するほどの事でも無かったから、あの場では言わなかったの。」
「何故話さなかった。」
「まあ、大丈夫だと思ったから。それに死ぬわけでも無かったから。」
「話せ。」
「そうね、・・・彼女が好きと言ったら、彼女の記憶が消えると言ったけれど、それは一回じゃないの。記憶を失い、またフェイに惚れて好きと言えば、また記憶は消える。」
「そうか。」
「そしてその回数を重ねるごとに、フェイタンの記憶が薄くなっていくみたい。あと惚れにくくもなるらしいわ。」
「は?」
「つまり、今彼女がフェイに好きと言って、記憶を無くす。そしてまたフェイに惚れて好きと言えば記憶を無くして、更にフェイへ惚れにくくなるように設定されている。」

それを聞いてフェイタンは小さく息を吐いた。

「除念師を探せばいい。」
「そうね。それがいいわ。」

を何度も使ったティーパックのような存在にはしたくは無い。
喫茶店から出て家路を急ぐ。だが、途中にケーキ屋を見つけて暫く店の前で佇んだ。がおいしそうにケーキを食べる様子を思い浮かべて店に入った。133
白い箱の中にショートケーキ一つを入れて歩く。二つ買えばフェイタンに一緒に食べようと言って進めてくるだろう事は知っていた。
低い土地で背後に山がある、蝶番が鳴る玄関を開けて玄関を上がる。
軋む廊下の音の後に書斎から出てきたが、おかえりなさいと言って抱きついてきた。
手に持っているモノの存在に気がついて狂乱するように箱を持ってくるくると踊った。が回る度に廊下はぎしぎしとうめいた。

「ケーキ崩れるよ。」
「ああ、いけない本当だ!」

は慌てて動きをとめて、今更ながら箱を両手で持ってゆっくりとリビングへ歩いて行った。その間にも廊下は軋んだ。
ケーキ皿とフォークを二人分出していたので、一個だけしか買ってないと言うと、フェイタンの顔を暫く見て食器棚にしまった。

「二つ、買ってきてくれればよかったのに。」
「お前が食べるだけでいいよ。」
「私が食べたのに。」

そんな事言っても、絶対にフェイタンに食べさせるのがだ。
フェイタンが向かいの椅子に腰を下ろすと、すでにはケーキを咀嚼し、緩んだ頬が溶け落ちないように手で押さえながら満喫していた。

「おいしいか。」
「おいしいよ。とっても。」

ルビーのようなきらきらと光る苺をフォークで突きさしてはぱくり、と食べた。フェイタンは珍しい。と思っていた。は好きなものは後に取っておくタイプだ。ケーキを買ってくれば、毎回最後まで苺は皿の上に残っている。相撲だったら黒星だらけで負けなしだ。

「あのね、私思ったんだけどね」
「何よ。」
「あの念の事。」

フェイタンは鎖骨の裏側の当たりを猫の舌で舐められた感覚がした。そういう時は、あまりいい事は起きない。

「フェイタンは気がついて居なかったかもしれないけど、私すごく我慢してたの。」
「・・・何が」
「好きって言うのをよ。」

久しく聞かなかった単語を聞いて眉が反応した。

。」
「ごめん、でも記憶飛んでないから大丈夫でしょ。」

あまり気にしていないような顔をしてフェイタンを見つめる。澄んだ瞳の奥には今まで読みこんだ書物の言葉の地層が溜まっているのだろう。

「なんだろう、私フェイなら何とかしてくれると思ってるの。だから、ね。ごめん。」

もう我慢できない。
セックスの最中に聞けたらどれだけ興奮する言葉か。
それなのに今は体中から体温が逃げ、背中にじわり、と冷や汗が滲んだ。

「大好きよ、フェイタン。」

聡明な女だ。だからこんなことはあり得ないと思っていた。こんな事で、と、思っていた。
だが、彼女は女だった。
一人の男に泥酔したただの少女だった。
それにフェイタンが気がついて居なかっただけなのだ。
自らの意思で、ゆっくりと瞼を閉じたように見えた。だが、フェイタンは念が発動したのだと冷静に見ることが出来た。
異質な何かがの周りを覆って行く。皿の上には少しだけ残ったケーキの残骸とフォークがあった。赤い苺は何処にも無かった。フェイタンが知るも見当たらなかった。
まるで眠ったように死んだはまた眼を開けた。喪失と誕生が、じんわりと虚無を広げたフェイタンに襲いかかった。

「あれ、・・・えっと、どちら様でしょうか・・・?」





地獄の季節



抱かれた事すらも忘れたように、処女の高潔さと戸惑いと不安が混じった瞳がフェイタンを貫いた。
彼女と彼の永遠は何処にも見当たらない。







title ALI PROJECT