書斎には雨の音がよく響いた。壁一つと何かを隔てているのに、そのしんとした空気に振動が伝わりやすいのだ。
窓に伝い落ちていく雨水はまるで星が墜落して行くように滑らかに落下をたどる。
本を閉じて息を吐いた。肺に詰まって少し淀んだ空気を吐き出して、ぼんやりと前を見る。
こんなに感動と達成感が混じった感慨を、一生持ち続けることが出来ないなんて。
は分厚い本を、前に読み終わった本が端に窮屈そうに置かれている机の上に置いて席を立った。
今何時だろう。
時計をふと見上げて時間を確認すれば、二時間程経っていた。
ああ、いけない。ドアを開けて慌てて外に出れば、そこにはフェイタンが立っていた。

「終わたか」
「あ・・・はい・・・」
「飯作れ」
「はい。」

何処で、そうなったのだろう。
まな板の上に人参を置き、よく切れる包丁で切りながらはぼんやりと考えた。
私はいつ、どうして、こんな自由な時間を与えられ、本を読む事を許されるようになったのか。
コトコトと煮込んでいる肉じゃがを少し混ぜる。味見をして様子を見る。きっと許されるだろう味付けだ。
鍋の火を消して時計を見る。夕ご飯まで時間がある。肉じゃがを少し寝かせておくには丁度いい時間に作った。
今日の夕ご飯の献立を理解しているからだろう事は分かっていた。
書斎に入り浸り、家事をおろそかにしているようには見えないのだろうか。
台所からそっと顔を覗かせてフェイタンの様子を窺った。リビングからは気配を感じられない。癖なのか、彼は家でも気配を消すようにしているらしかった。
先ほどのドアの前に立っていた時も、気配を消していたのだろう。

「夕飯は、何時頃お召し上がりになられますか?」
「いつも通り」
「分かりました。」

フェイタンとが出会った時の事を知っているのは、フェイタンしか知らない。
はフェイタンと初めて出会った時の事は全く記憶にない。何があって一緒に居るのか、何処でお互いに名乗り合ったのか、何処で意思疎通を始めたのか、まったくない。
心の奥底にこびり付いた傷跡のように、どれだけ擦っても落ちない汚れのように、フェイタンはが生まれた瞬間からの中に存在しているものだった。
記憶喪失だと、白衣の男に言われたのだが、は日常生活もできるし、文字も読める。何より、一番傍に居たフェイタンの存在を何のためらいも無く受け入れることが出来た。
家の間取りが違う。と、感じたことは誰にも言っていない。が記憶喪失だと言われたその日に戻った家は、がぼんやりとも覚えていない家とは違う気がした。
有無を言わせぬ権力を持っている。まるで鳥の擦りこみのようにが感じる抗えぬ何かを持っているフェイタンが、さっさと入れと促せば、その問題は霧散してしまった。
フローリングの廊下を歩けば、廊下は軋むものだとは思った。何も悪くない廊下をかかと落としで蹴れば、フェイタンに蹴られた。
ドアノブを手にかければ、ドアでは無く障子であるべきだと感じたはドアノブを掴んで捻らず、そのまま真横に引っ張れば、フェイタンにどけ。と、手で押しのけられ、リビングに入って行っかれた。
服装もスカートでもズボンでも無く着物であるべきだと感じた。
だからと言ってそれを言えば、きっとフェイタンは機嫌を悪くしてを無視するだろうと、なんとなく感じた。
違和感が転がる家の中で、不安が消えて行ったのは書斎の存在が大きかった。
は泳いでいないと死んでしまう鮫のように、本を読まなければ不安で悪夢を見る事も稀にあった。
フェイタンも、記憶喪失になる前のもそうだったのだろう。が書斎に入り浸る事に何の注意もしなかった。

「フェイタン様」
「何ね」

がご飯を用意したと呼びに来た時に、フェイタンはリビングで拷問用具を磨いていた。どうやって使用するのはは知らないが、形状と、少しこびり付いている血を見ればそうなのだろうと分かった。
そのまま血と錆びの付いた濡れたタオルと一緒に、床に置いて立ち上がった。
書斎に籠ってから、フェイタンは何を目的としているのだろうと、がぼんやりとしている時に考える中の一つに必ず入っていた。
それは書斎の中であったり、風呂の中であったり、買い物先であったり。発作的な思想の海にどっぷりと、赤ん坊が羊水に浸かるように入りこむ。
小説のテーマに、生きがいというものがあった。
私の生きがいは何だろう。
作った肉じゃがを食べるフェイタンを見つめながら思った。何を考えているんだろう。何を感じているんだろう。
記憶喪失だと言われて、どうしてこの人はあんなに普通だったんだろう。
今の態度とその時の態度に、何の変化も現れない。

食器を片づけて書斎にまた戻る。
古い本棚に入っているのは古い本だった。床にも入りきらない古書は積み上げられていて、少し埃をかぶっていた。
は読み終わった本を机の端っこに置いて、床から一つの本を拾い上げた。
今度はこれにしよう。
古びた椅子に座って机の上に本を置く。分厚いハードカバーを開き、読もうとした。

「・・・・?」

その最初のページに、小さな紙が折りたたまれて挟まっていた。前の人が栞に使っていたのだろうか。
それを手にとって開いてみると

「彼を、好きになるな・・・?」

まるでキャッチコピーのような一文に、は首を傾げた。彼とは誰だろう。そう考えながらも、頭の中では一人の男がこちらに顔を向けないで立っていた。
いや、古本屋で買った時に、前の持ち主のメモかもしれない。それに何より、に警告をしているわけではないだろう。きっと。




は初めて自分が映っている写真を見た。少し厚い紙に印刷されたソレは少し擦り切れていて、時が経っているのが分かった。
少し色あせたインクで写っているのは、自分らしき女とフェイタンだった。やはり、彼とは昔からの付き合いがあったのだ。
しみ込んだ本能を、論理的な証拠がの手中にある事がとても安心した。
フェイタンは今と殆ど変らない姿をしていて、不機嫌そうにこちらを見ている。らしき女はそんなフェイタンの横に立っていて、こちらに薄く笑みを浮かべて見ている。
家の前で撮られたであろう写真は、がぼんやりとした輪郭すらもあやふやな家の情景にぴったりと入りこんだ。
少し古びた母屋、瓦が屋根に鱗のように重なって、雨戸の開いた部分からは古びた廊下と障子が見える。
此処が生まれ育った場所だと理解した。写真の中にある、時が満ちた紙の中にあるのだ。裏返して見ても家の裏側にはたどり着けない、二人の後ろ姿は見えなかったが、そこに自分の文字と似たような文体で走り書きがしてあった。

「彼を、愛すな・・・。」

まるで謎解きのようだと思ったが、少し不気味に思った。この写真はが初めにメモが挟まった本を読み始めてから一ヶ月過ぎ、新しい本を読もうと、適当に本棚から取り出した本に挟まっていた。
あの本は誰か他の第三者のものだと思いこむ事を許された。だが、今回は自分が映り、フェイタンが映り、自分の文体と似た文字で書かれていたのだ。
前の本にしおりとして使っていたあの紙を、読み終わった本を開いて取り出した。よく見るとこれも似たような文体だった。
一体何を示唆しているのか。
は貪るように本を読み、色々な情報と知識を蓄えたが、この一文からは何も読み取ることは出来ない。同じ文字だというのに、をこれからも苦しめる愛するな、好きになるなというテーマは酷くを動揺させた。

人間、するなと言われるとしたくなるものだ。
だからといって、好きになるなと言われて好きになるなんて、そんな簡単な事でもありはしなかった。
だが、時折視線がぶつかり合うと、どうしてかざわざわと胸が森のさざめきのように蠢くのだった。
フェイタンは相変わらず家に入り浸りになったり、何日も家を開けたりするようになった。
一人で家に居る間、寂しいと思うような事は無かったが、虚無感があったのは確かだ。家に一人だけなど、暇だし、家という大きい入れ物の中にのようなちっぽけな存在だけしかいないと言うのは、少しもったいない気がした。
だが不思議な事に、フェイタンが家から居なくなった途端に、猫や犬、それに鳥などが庭で寝ていたり、尻尾を振って餌をねだってくる。
脅威が立ち去ったと言わんばかりのその生き物が集まる様子に、は小さく笑うのだ。自然の本能すら、あの人を怖がっているように思えた。
そんな人の傍に居る自分も同じくすごい存在ではないのかと思う事があったが、それは無いな、と、すぐに思い直すのだ。
高台のぽつねんと建つ家には訪ね人なども訪れることも無く、はフェイタンがいない時には一人で書斎に籠り、庭の動物達と戯れて時間を潰していた。
だが、フェイタンが帰ってきた事によって何か変わるのかと言われればそうでもない。作る食事の量が増えるだけだ。
家の中には活気は無く、庭に動物は訪れなかったが、家の中に誰かがいると言うのはとても落ち着いた。
本を読み終わり、新しい本をランダムに選ぶ。色んな本がある中で、適当に一冊抜くのだ。
積み重なった本の間から、本棚の一番下の右から二番目、本棚の上に積み重なった中から。
それなのに毎回のようにメモが挟まっている。彼を愛すな、好きだと思うな、恋をするな。
もしかして全てに入っているのかと思い、本を調べてみれば、まだメモが挟まっているものが何冊かあった。その数冊の本は、が読みたいと思えるような本だった。

何を意味しているのか、何故同じ文字なのか。が書いたのか、似た文字を書く他人が書いたものなのか。
何度も念を押されたからなのか、はフェイタンの顔を見ることが出来なくなっていた。
ソファーに座り拷問用具を拭く姿や、本を読み、テレビを見るフェイタンの横顔を見る。胸が高鳴るのは、呪詛のようなあの言葉のせいなのだろう。

「書斎の本を、お読みになられた事はありますか?」
「・・・さあ。」
「あの書斎の本は、私の、だったのですか?」
「別に、それがどうかしたか。」
「いえ・・・。」

私の、という言葉に違和感と戸惑いを覚えたけれど、言ってしまえば楽になった。帳が無くなったように、あの書斎はのもので、フェイタンが与えたものだったのだ。
聞く事をためらう事柄が、記憶喪失という言葉から湧き出ていた。
そしてその事実は、あの紙はフェイタンのでは無く、の秘密だったのだという事が分かった。
が距離を置くように、フェイタンとの接触を出来るだけ避け始めた頃、フェイタンが手を伸ばしてきた。
頬を掴むように引き寄せて唇に噛みついた。の唇からは血が落ち、悲鳴を出そうと口を開ければ舌が捩じりこまれた。
何の前兆も無くそのような事をされて、動揺するのはもちろんの方であるのは当たり前だ。
なのにハッと眼が覚めたように、を突き飛ばして部屋を出て行ったフェイタンの意図が、まったく理解できない。
炎を押し付けられたような口づけに、膝から崩れ落ち、暫くしゃがんだまま動かずには時計の音を聞いていた。
頭の中では愛するな、好きになるなという、警鐘が無限にループして廻っていた。

「私はお前なんて好きじゃないね」

またリビングに戻って来てはっきりと、の前で宣言するように言った。

「他の女と間違えただけよ。」

嘘だ。
の中でニュアンスが二つに分かれる言葉が鳴り響いた。
嘘だ、他の女なんていない癖に。だったのか、嘘だ、他の女とあんな事してたなんて。だったのか。
後者だったらは今、崖のギリギリに立っている事になる。の背中に覆いかぶさるようにあの紙と文字がに無音で怒鳴りかける。
は自分の自我は薄いと思っていた。誰かに尽くすタイプというよりは、自分が今どうして此処に居るのか分かっていないような、記憶喪失とは関係なく、そういう軽薄な人間性だと思っていた。
フェイタンがいればなんでもいいというよりも、フェイタンがそこにいるのなら、その近くに立っておこうと言う、雨が降っているので適当に雨宿り出来る場所へ向かっている、という感覚だ。
あまり考えないようにしていた事だが、フェイタンとの関係は何なのだろうと考える。
色々な情報は回りにあった。そして眠っているのだろう。あまり無いかもしれないが、きっと何処かにその鍵はあるはずだ。
家政婦と主人、夫と妻。あり得ない。
それよりも召使の方がいいかもしれない。そう思ったけれど、今までの出来事を思い出すとそうとは思えなかった。
フェイタンという人間を見ていて分かったのは、もし、従わせるべき標的が傍にある時、外に出かける時には必ず首輪をつけて鍵をかけて出ていくだろう。
は首輪をつけられない、躾も無いし、何より外にふらふらと出かけることが出来る。時折本屋に寄ったり、カフェでお茶を飲んだりと、故意的にではないがフェイタンに隠れてしている事がそれなりにある。
だからと言って・・・

「・・・違う、こんな事考えても無意味・・・」

少し埃っぽい書斎の椅子に座って、机に拳を押し付ける。ああ、窓を開けよう。空気を入れ替えて考えを変えよう。
火傷をしたようにじんじんと熱と感触が思いだす唇を戒めるように噛みしめながら窓を開けた。
けれど、
建てつけの悪い窓を開けたとたんに湿気と本の匂いが経ち籠った書斎の中をぐるり、と、爽やかな風が渦巻いたように感じた。
が知っている世界は狭い。失う前の記憶の中にはもっと違う世界が広がっていたのだろう。
あの薄く色あせた写真の中には、色んな世界を見て感じて知っていたが居た。羨ましい、と思った。
そして気がついた。もしかして、他の女とは記憶を失う前の自分ではないかと。
根拠も証拠も無い、あの写真ですら、少し距離が離れていた。恋人と言うには余所余所しい。
確信などつけられない。一つの過程としてそれを取り上げた。
決して、記憶がある前の異常に、他の女と、なんて考えたくなかったという事ではない。
自分のあるべき場所が、世界を広げて何処にでも行ける存在だと再確認してしまっただけだ。
はどうすればいいのだろう。記憶はなくてもいいし、取り戻すほどの価値があるとは自身思っていない。
だが、あの写真やメモやフェイタンの行動、そしてこれからを考えると、が滞っていた石が無くなったかのように、川の流れはゆるやかになって行った。
机の引き出しから、抜き取った一つのメモを取り出した。他のメモはその本に挟み直してしまっている。

彼を好きになるな

何だか、記憶を失う前の私が、浮気相手に言う様に、今の私に威嚇を込めて言っているような気がした。



「フェイタン様。」

そう呼ぶ度に、とフェイタンの間には広い距離と溝があるのだと確認する。決して近くに寄れず、触れず、開けない。
給仕なのだとは感じた。
月の半分ほどはこの家にいないが、その半分を充実させるためにを此処に居させているのではないか。
時折訪れる別荘が、ついた時には埃が溜まっていて空気も悪い。
それを嫌ってなのか、掃除を面倒くさがっているからか、常に部屋を掃除し、換気する役目をにになっているのではないか。
記憶を失う前のに仕事を依頼したから、記憶を失った今のに説明するのを面倒くさがっている、もしくはその役割を理解していると思っているのではないか。
だが、給料は貰えない。それなのに通帳から食費やらを落とすことが出来る。
そこが引っかかっていた。今更フェイタンに「私は何なのですか?」と、自分の存在価値を尋ねるような馬鹿な真似はしたくないし、何より距離を置いているのだから、あまり関わるのはどうかと思う。この間のキスが更に拍車をかけた。
フェイタンはまた何処かに出て行った。「しばらく戻らない」そう言い残して家は簡素なものになった。
息が詰まるような思いはしなくていいと思ったが、やはり虚無感は抗えない。当たり前のように動物はまたやって来て、に尻尾を振って餌を求める。
かわいらしい黒い瞳の犬に、こういう時のために買っておいたビーフジャーキーを与えた。おいしそうにバクバクと食べる頭をするりと撫でる。

「・・・あら?」

首輪の装飾かと思ったが違う。首輪はしていない。完全な野良だ。
それなのに犬の首元に何か堅いものがあった。指先でつついてみると取れる気配は無い。じっと見て見るとそれは玩具のようなものだった。
指で挟んで軽く引っ張れば簡単に抜けた、が、犬はぴくっ、と反応してから逃げて行った。
颯爽と逃げた犬の背を見て呆気にとられる。あれだけ振っていた尻尾ももう動いて居なかった。

「・・・・何?・・・」

それから犬も猫も来ない日が続き三日目、また尻尾を振ってあの犬がやってきた。
誰かに悪戯されたのか分からないが、何の変化も無くまた餌を求めに来る姿を見ると何だか笑ってしまう。
餌を与えて、食べている間に前に刺さっていた部分に触れる。また何か刺さっていた。
書斎の引き出しにしまってあるあの変な玩具のようなものとまったく同じだ。また刺されたのか。そう思って長い毛を指先でどかしてみて見ると、紙が引っかかっていた。
それを取り、広げて見ると「アンテナを取らないでください。」と、書いてあった。
アンテナとは何だろう。この玩具のようなものなのだろうか。
病気をしていて、このアンテナのようなものは刺しておかないと駄目とか、そういうたぐいのものなのだろうか。
食べ終わった犬が満足げに顔を上げて一吠えする。私は頭を撫でる。犬の尻尾は千切れてしまいそうなくらい振っていた。

フェイタンが帰ってきたのは更に三日過ぎた時だった。玄関を開けたとたんに、家の中に嫌な感じが充満した。機嫌が悪いのだ。そう感じながらは玄関に向かい、頭を下げた。

「おかえりなさいませ。」

じっ、との顔を見て、すぐに通り過ぎて行った。頭を下げる瞬間に見た表情は不満でいっぱいだという顔をしていた。
何があったのだろう。リビングに入って行き、ソファーから覗くフェイタンの後頭部を見ながらは思った。
予告も無く帰って来るフェイタンだが、はそろそろ帰ってくる時期だと感じると、一人用の食糧を二人用に増やした。誤差は一日や二日が平均だが、時折五日ほど、予想を外した事もあった。
出先で何があったのだろう。

「おい」
「はい。」
「お前、何か変わた事ないか」
「いえ、特にはありませんが・・・」
「そうか」

眉間の皺は更に深く、本数を増やした。
フェイタンは顔をふい、と逸らし、に行け、と無言で圧力をかける。

お前じゃない。

はっきりとにはそう聞こえた。理由などないが、脳の奥でシグナルのように何かを受信したのだ。
フェイタンと会話をするたびに、の中に溜まっている問題が昇華されていく。答えが、不純物を浄化して行く。そして残っていくのはただ澄んだ水のみだけだった。
レントゲンを撮ったように骨だけが浮き出て、本当の裸になる。私の心の器は向こう側も見えるようになった。
私自身、隔てた壁のお陰で分からなかった事が理解できるようになった。
見えない帳があった。
それを抜くことはきっとできない事を理解した。