季節に思い入れなど無かったが、冬は寒く痛い季節だと言う事をぼんやりと感じていた。

春のむず痒さも夏の粘着さも秋の痺れも全てをまとめ上げて、にとってお強烈なインパクトを残す季節だった。

毎朝眼を開ける前に、顔には雪が積もっていた。コンクリートの冷たさに肌から血が出たり、ある時は凍結したり、凍った道路を寝起きの頭でふらふらと歩いていると転んだりした。

何処なのか分からない。此処は此処だとは認識していた。今いる場所がいいのか悪いのか分かっているが、国の名前や地名は知らなかった。

文字を書くこともできないし、文字はあまり読めない。

時折店先からパンを盗む際にテレビに流れる何かを見ることはあったが、それが人だとか食べ物だとか球技だという事しか分からなかった。逃げる事に必死だったし、何よりそんな事はにとって瑣末な事だった。

ボロボロの布切れを引っ掛ける程度に生活していると、寝込みを襲われることが多くなった。

男達がに手を伸ばしたり、身体を弄られたりなどされると驚き、何がしたいのか分からないが、嫌悪感が勝ち、はとにかく逃げるのだった。

その時もそうして夜逃げていた時の事だった。

痴?な男達から距離を取ろうと、薄暗い夜の街の裏側を走っている時に誰かにぶつかった。

は鼻を思い切りぶつけ、鼻を押さえて二歩ほど後ろに下がった。

薄らと眼を開けて見て見ると、仄かな月明かりが差し込んで、まるで人形のような無機質な存在感と表情に、は後ろから迫っているであろう暴漢の存在を忘れた。

男か女か確かめる暇も無く、首元に何か違和感を感じた瞬間に、身体が前に傾き、視界が地面に落ちて黒くフェードアウトして行った。

 

「今日から母さんの玩具になってほしいんだ。」

 

痛くない目覚めに飛び起きた瞬間に、ふかふかのベッドについた手のギリギリの所に何かが飛んで刺さった。

そしてそんな言葉がの耳に飛び込んできて、顔を上げた。

人形のような、機械的な表情を保ったまま、ベッドのそばに立っていた。

 

「言葉、分かる?」

 

こくり、と、反射的に頷いた。そう。と返事をして男は去って行った。

少し頭が揺らぐような感覚に、胃の奥から何かがこみ上げ、口を手で覆い隠した。

ベッドに付いた手で感じる心地よさに、その吐き気も収まってしまい、無我夢中で初めて感じる感触には泥酔するように心が騒いだ。

許しを請う様に両手をついて、額にシーツを擦りつける。気持ちがいい。

 

「ね、おもしろいでしょ。」

「そうね、見てる分には面白いかもしれないけど・・・・」

「だからカルトをあれ以上振りまわすのやめてあげなよ」

「まあ、イルミったら私からカルトちゃんを取り上げようだなんて!」

「さすがに女にするなんて言い出したら取り上げたくもなるよ。」

 

物珍しいサーカスのライオンを見るように、観客が二人こちらを見て指差している。

土下座した状態から顔をそっと上げて、は自分が着ていた、というより引っ掛けていた布などなんだったのかと思えるほど、煌びやかなドレスをまとった女性をじっと見た。

 

・・・ふりふりのふわふわだ。

 

「ほら、母さんの服羨ましそうに見てるよ。丁度いい」

「うーん、でも見た目がねえ、あんまり可愛くないわ。」

「とりあえずお風呂に入れれば見れるようになるんじゃないの?」

「そうね・・・まあ、とにかく汚らしい恰好はやめてもらいましょう。」

 

キキョウが手を叩くと、ドアの向こうから静かにメイドが顔を伏せるように静かに入ってきた。

はまた入ってきた人間をまじまじと見ていた。その綺麗な洗脳された容姿と綺麗な肌と、これまた綺麗な服装に見とれていたのだ。

両腕を持ち上げられるようにベッドから降りらされ、そのまま大きな浴槽の待つ浴室まで静かに引っ張られて行った。

まるで拾って来た犬を洗う様に、服と言えない布を剥がし、浴室に入れられ、生まれて初めて石鹸で身体を洗われた。

肌を撫でるようなその気持ちいい手つきと、頭皮をこしこしと洗われるそう快感に、は戸惑いながらも頬が緩み、瞼が重たくなっていた。

それでもメイドは何度も汚れの落ちないの頭を流しては洗い、流しては洗いを繰り返して、やっとの事外に出てこれまた肌触りのいいタオルで身体を拭かれた。

他人に裸を見せる事に対しての違和感に似た羞恥心は、身体を洗われている間に汚れと共に落ちていた。

下品な男達よりも、綺麗で繊細な手つきのメイドに見られたりさわされたりする方がよっぽどましだった。

 

「まあまあなんじゃない。」

「そうねえ、殊更可愛いとは言えないけど・・・」

「母さん。」

「・・・分かったわ、この子で我慢してあげるわよ」

「うん。」

 

キキョウがを自分の部屋へ連れて行くようにメイドに銘じると、今度はエスコートするように頭を下げて「こちらへ」と言われた。

は戸惑いながらも言う事を聞いた。何処に行けばいいのか教えてくれると言うのなら、そこに行くしかないし、教えてくれないのなら此処で立ち止まったままでいるしかない。

ゆっくりと歩く廊下は広く長く、ゴミと腐臭の溜まった裏路地とは違う永遠を彷彿とさせた。

 

 

キキョウの人形となって2カ月が経った。

衣食住共に満たされており、開放的な庭と安心のセキュリティーを誇るゾルディック家には鼠一匹見たことが無かった。

は眼が覚めると雨が降っているか、犬が傍に寄って眠っているか、猫が威嚇していたりだとか、そういう何か一つスパイスが混じった朝を迎える事が多かったのだが、イルミに拉致されてからはそれが無くなった。

暖かい布団の中で安心して眠ることも起きることも可能。自由だが、それは籠の中の儚いものだとはは思わなかった。

キキョウの命令により、には文字の読み書きを教えられる事になっていた。毎日3時間、みっちりと家庭教師のつきっきりで勉強する羽目になった。

まずはえんぴつの持ち方から入り、今は文字を綺麗に書く練習をしている。

服装は毎日、もしくは何時間か置きにキキョウが指定したものを着るようになっている。

 

「あ・・・イ、ルミさ、ま」

「おはよう。」

「お、おはよう、ございます・・・っ」

「相変わらずたどたどしいね。」

「え、と・・・はい・・・」

「母さんなら庭に居るよ。」

「あ・・・」

 

そういってイルミはの横を通り過ぎて行った。さらさらの髪先は、食事もお風呂もちゃんとしてきたには足元にも及ばない程の美しさだった。

だが、その情人離れした美しい髪が流れる後ろ姿を見ていて、は人形みたいだと思うのだ。

会話をしていてもイルミの瞳には何が映って何を思っているのか分からない。

対人関係に疎いというか、そういう事に縁が無く、そういった心の機微を感じとる感受性があまり発達していないも原因があるとは思うのだが、人一倍、いや、人形のように恐ろしく無機質なイルミが苦手だった。

キキョウに見せてもらった西洋人形を見た瞬間に、あの人だと思った。綺麗なドレスとまいた金髪の少女の人形だったが、は黒髪の男のイルミを思い出していた。

 

「あら、ちゃんリボンの結び目が緩いわよ。」

「あ、ご・・・ごめんなさい・・・っ」

 

慌てて胸元のリボンを解いて結び直したが、先ほどよりもくたくたになってしまっている。

リボンを結ぶのは、文字を書く事異常にには難しく感じた。

 

「仕方が無い子ね。私がしてあげるわ」

「申し訳、ありません」

 

庭の薔薇の美しさに意識を落ち着かせていたキキョウの指先がの胸元に伸びてきた。

その時に薔薇の匂いと、キキョウが愛用している香水の匂いが漂った。

最初はあまり気に行っていないそぶりを見せていたが、時が経つにつれて情が移ってきたのか、それとも生身の人間の女を着せ替え人形にする事がよかったのか、に優しくなっていた。

時折頭を撫でたり、頬を触ったりと、少し愛玩動物という認識になっているようにも思えるが、は現状に満足していた。

人並みの生活に突然放り投げられたような状況だが、あの場所に帰りたいとは思わないし、帰ってくる場所となるとゾルディック家にもうなってしまっている。

それほどに此処は心地よく、が人間としての尊厳を守ってくれる場所だったからだ。

だが、最近は読み書きができ、世界の動きや男と女の営み、学校という場所なども根本的な部分から理解するようになり、ゾルディック家の中で疑問がずっと喧騒の中で孤立した状態にあった。

 

感情の読めないゾルディック家の長男のイルミが、毎晩午前0時に必ず、の部屋に訪れる。

窓からだったりドアからだったりしたが、基本的にはドアから入ってくることが多かった。

部屋には鍵がついているし、窓にもついている。折角ある小さなセキュリティーを使わない手はもちろん無い、が、それを簡単に破って、毎晩イルミはやってくる。

お互いにそれについては何も触れないのだが、それはが寝た振りをしており、イルミはが毎晩の訪問を認知していないと思っているからだ。

 

親子の遺伝は見た目には現れないが、内面的に似ているのかもしれない。

キキョウの手つきと同じく、頬や頭を撫でたりした。首筋に指を当てて脈を測ったり、頬をつついて来たりもした。

日常生活の中でばったりと出くわした時、はイルミの真意を聞こうと思うのだが、いかんせん出会いの時に、気絶させられた事が今だに心のどこかにひっかかっていた。

それがあったから、今此処にいるのは分かっているが、あの時の瞬間的な、冬の痛みのような熱さと吐き気が何故か、鮮明に思い出す事が出来るのだ。

だから顔を合わせると、言葉がいつも以上にどもってしまうのだった。

がキキョウとその日、ショッピングをして帰って来た時には時計の針は十二時を過ぎていた。午前0時の鐘の音はもう鳴り終わった後だった。

 

朝から晩まで引っ張り回されたは疲労が溜まり、すでに瞼が重く、ベッドに倒れればすぐに眠りに落ちてしまいそうになっていた。

だが、ちゃんとキキョウの言いつけどおり、お風呂に入り、髪を乾かして眠る事にした。

シャワーを浴びた後、浴室から出てくると、そこには椅子に座ったイルミが、隠れる事もせずにただ座っていた。

 

「・・・イルミ、様・・・」

「うん。」

 

が思わず眼を見開き、イルミを凝視した。ベッドの近くに椅子を態々持ってきたのだろう、リビングにあった少し重い椅子が、場所と存在を圧迫してそこに鎮座していた。

 

「眠れば?」

 

軽くベッドを指差して、に言う。その時ですら、イルミの瞳からは何も情報を読み取ることは出来なかった。

まるでイルミの指先から糸が出ているように、の身体はゆらり、と、脳が判断を下す前に動きだし、ベッドに腰をおろしていた。

観察するかのようにじっと見つめられる。黒い瞳がの黒い髪の毛や瞳の色素を吸い取ろとしているかのように思えた。

瞳に気を取られている内に、イルミが視界の中で確かに真ん中に鎮座していたのに、いつの間にか眼の前に現れ、の胸をとん、と押してベッドに倒した。

路地裏の、逃げ惑っていた時の首元の、違和感だけしか感じさせなかったスピードをはっきりと確認することが出来た。

 

「母さんってね、結構飽きっぽいんだ。」

「・・・はあ・・・」

「はっきり言って今がピークだろうね。」

「・・・・・」

 

お払い箱、玩具箱にしまおうとでも言いたいのだろうか。と、は思った。

の両腕を両手でそれぞれベッドに縫い付けるように抑え込み、抑揚のない声音と影った顔が更にに肌寒い、窓枠など無い、剥き出しの夜を思い出させる。

 

「君色気ないよね。」

「・・・それ、が・・・」

 

どうしたと、いうん、です?

 

が言い終わる前にイルミが顔を近づけて唇を押し付けてきた。キキョウと共に見たドラマであった行為だ。キス。

夜の公園や、それこそ裏路地などで男女、時折男同志でひそやかに行われていた行動だ。

 

「少女人形は、カルトで満足だと思うんだ。」

 

はイルミの言葉を聞き洩らさないように、意味をはき違えないように耳をすませた。

だが、その遠まわしな言い方は、まるで自分に何かを言い聞かせているようにも思えたが、それは完全に違うと思った。イルミはそんな人間ではない。

 

「だから・・・、」

 

それっきり、イルミは言葉は吐き出さなかった。溜めていた、貯蓄していた言葉を全てに吐き出したと言う様に。

潤った肌にイルミの手が滑った。布をはぎ取られ、の至る所を噛み、撫でるように身体の上をイルミの髪が落ちて行った。

はなんて恐ろしい行為だろうと感じた。あの暴漢達は、裏路地で絡み合っていた男女はこんな事をしていたのだ。

はっきりと見た事も認識した事も無かったけれど、これは確かに、秘密にしなければいけない事だ。

 

「イルミ、様・・・っ」

 

髪が、くすぐったい。

痛い。

 

足の裏を氷の破片が突き刺す様な、そんな痛みだった。

 

 

黒い冬

 

 

当初予定していたモノとはまったく違う流れに・・・

 

 

title 悪魔とワルツを