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 光と影の間に白い息が紛れ込むようになった冬の夜。ヘッドライトをつけた車がまっすぐな田舎道を走っている。ハンドルを握っている私の手先は冷たくなってじんじんとしびれている。暖房をつけていてもいまだ手先は冷たく凍てついたままだ。
車の中でも白く凍てついた息が一息ごとに凍えほろほろと溶けていった。
田んぼに挟まれた道を曲がり、山の方へと向かっていく。田舎の不便な所は大自然がある代わりにバイト先が近くにない事だ。
コンビニも車を走らせて三十分だし、来客も狸やら鹿やら、運が悪ければイノシシや熊が窓を突き破ってくることもある。そんなダイナミックな突撃があるような場所に何故住み続けているのかというと情だ。二日三日いれば必ず情はうつってしまう。それが20年程住み続ければ、情以外で家は存在するはずがないという領域にまで達する。
そんな家に私は今疲労を抱えて向かっている。


「一気に暗くなっちゃったなー」


冬は寒くて嫌だが、仕事帰りが暗闇に包まれることの方が嫌だ。指先が冷たく凍えても、5メートル先が見えない方が嫌だった。
バイト先の近所の喫茶店の珈琲をちびちび飲んでそのまま机に突っ伏して眠ってしまいたい気分に陥る。けれどそんな事は許されない。テレビを見ながら炬燵で眠るくらい許されない行為なのだ。何故ならば寒い中に温かいところがあると睡魔がやってくる。それと戦うのが、寒い地方に住み着いた人間の戦う使命だからだ。
人気が少なく、街灯が少なく、田んぼや畑はまんべんなく広がっている。
寒さや暗闇は必然的に恐怖を呼び起こさせる。子供のころから養ってきた幽霊やお化け、オカルト的な恐怖が、感情をざわざわと不用意に掻き立てる。アクセルを思い切り踏みつけたいけれど、変な動物と事故を起こしたくはない。暗闇の中で瞳を光らせている動物とはできれば。
家に帰れば明かりがついているのが常だけれど、今は両親が旅行に出かけていて誰もいないので、電気はついていない。
普通ならばすでに家の明かりが見えるはずなのに、温かみのあるその灯はない。


「はあー・・・」


がっくりと肩を落としてハンドルを操作をするのは、200メートル離れたお隣さんの家に熊が現れたとかなんとかという話があり、できれば一人でいたくないというのが本音なのだが仕方がない。
五年ぶりに夫婦水入らずで外国へ旅立った両親を羨ましがる立場はバイトの私には全くないのだ。
近くの山は夜空よりも黒く塗りつぶされている。空よりも森の方が夜空に相応しい黒だった。平面に見えるほどの黒い森からは夜行性の鳥の鳴き声が響き、時折風に揺られて木々がこすれる音がする。
田んぼと畑の中からは虫の声が静かに響き渡り、あとは静寂が靄のように漂っていた。
空中で何か得体のしれない幽霊が、私に何か不穏な手を伸ばそうと絡み合っているような感じがして、慌てて車を家の前に停めて出た。
今日はカイロを持ってくるのを忘れてしまったので、朝から寒くてたまらない。
明かりのついていない一軒家にたどり着いた。古めかしい屋根瓦のある私の家は、おざなりな玄関で鍵のかかりが悪くなっている。
鍵穴に鍵を刺しこむと、僅かに引っかかってしまい、少しイラつきながらガチャガチャと回していた。
時間が無いというわけではない。この夜が怖くて仕方がなかったのだ。車のヘッドライトも消して、車のライトも消した。早く家の中の電気をつけてテレビもつけて安心して眠りたい。
だが、私が望む明かりは頭上からぼんやりと降り注いだ。懐中電灯のような人工的なものではなく、まるで太陽のような包み込むような光に私は上を向いた。


「・・・え?」


そこには世闇を突き破る太い光の線が一本あった。流れ星の太いようなもの。もしかして、と頭の中で冷静に可能性を探りだし、隕石という二文字が浮かび上がりながらも、まさかそんな馬鹿な事、と、口端をひきつらせてその光を見ていたが、一気に強く光ったので眼を瞑ってしまった。
その瞬間、ドォンッと、衝撃が走った。僅かに地面が揺れるが予想していたよりも小さい衝撃にゆっくりと瞼を上げると、そこには先ほどの暗闇が広がっていた。だが、少し温度が高い気がする。


「何、何なの・・・?」


ガチャガチャと鍵を回し、ガラガラと玄関を開けて電気をつけた。
キョロキョロと視線を動かすと、玄関の真横に何かがあった。ほんのわずかに煙を放っているそれは岩だった。


「・・・ほ、本当に隕石が・・・?」


それにしてはクレーターができていないなと、数十メートル上から落とされたような地面のへこみ具合に首を傾げながら近づくと、その岩ががた、と小さく動いた。
思わず一歩後ろへ下がり、暫くじっとして岩を観察した。数十秒しておそるおそる手を掲げてみると、その岩の熱が冷たく凍てついた手にじんわりと広がっていった。どうやら表面は高温らしい。
懐中電灯を持って来ようと家の中に入り、机の引き出しから懐中電灯を取り出して、慌てて外に出た。
ボタンを押して隕石へ向けると、そこには隕石はなかった。そこには立ち上がり、背骨を伸ばしている裸の人間の姿があった。


「・・・は・・・」


思わず漏れたその声も白く凍えていた。頬も冷たく、手先も冷たく、懐中電灯の光の中に冷たさを感じる空気の沈殿が巻き上がったような揺れが見える。
黒い髪の毛だった。筋骨隆々で、まるで石造のような美しい肉体。額には短い角が生えていて、呼吸しているはずなのに、その人の呼吸は全く凍ることなく白く濁らない。


「ククク・・・長い旅からやっと戻ってこれたと思ったが、何とも辺鄙な場所に落とされたものだな」
「・・・・・」


1、1、0? それとも、1、1、9かな? と、男が独り言を言った瞬間駆け巡った思想だ。その間私の息は凍え続け、呼吸するたび喉は干からび、視界を遮るように白い息が漂う。
腰に手を当てたその人は宿命的な感傷を持って、平凡な田舎の暗い景色を眺めていた。後ろへまた一歩下がると、視線がつい、とこちらを向いた。まるで私なんていないような態度をとっていたので、そんな反応をされた私はギクリ、とするしかない。


「一体どれほどの時間が流れたのかさっぱりわからんが、とりあえず腹がすいたな」
「ひっ・・・」


暗闇の中で光る瞳は、世闇にまぎれて畑で漁っているイノシシのようで、森の中でウサギの首根っこを噛んでこちらを見ているキツネのようで。つまりこの眼の前の男の人は私を捕食対象としてみている。あまり呑気に考えていられない。ばかばかしいかもしれないが、相手は宇宙人だ。あれは隕石ではなく宇宙船で、この男は人間を食べるのだ。
まわりには耳の遠い老人ばかりで、しかも数百メートルも離れている。窓は明かりがついておらず、あたりは真っ暗で街頭の光が人魂のように遠くでぼんやりと光っているだけだ。
背後に下がって、玄関の横にある熊手を掴み握りしめた。


「ちょ、こ、来ないで!」
「ほう、このカーズに命令するか」


相手は日本語を話していて、どうやらはカーズと言うらしい。
この真冬に警察に見つかったら連行されるような布面積の少なさという格好にもかかわらず、寒いというそぶりを欠片も見せつけない。
眉を顰めて、寒さに身体を震わせ白い凍えた息を吐きながら、一歩一歩、近づいてくる男から逃げる。


「栄養価は低そうだな」


まあ、致し方あるまい。と、妥協するような発言までしてくる。恐ろしい奴だ。冬ごもり前の動物でもそんな横暴な事は言わない。彼らも命に対して冷徹だが本能的に相手を啓蒙する姿勢はとっている。
知的生命体の男に怒りを覚えつつも、膝はずっと笑いっぱなしでちぐはぐだった。


「あ、ああ・・・っ」


ぶん、と思い切り熊手を一振りした。だが相手はその射程距離内に入っておらず、虚しく冬の空気を空振りしただけだった。
男は、カーズは私に手を伸ばして肩をがしりと掴んだ。余裕の笑みを浮かべて私を見下ろすその男は、本当に石造のように冷たい胸に私の頬を押し付けた。


「・・・は!?」
「む・・・」


一体何が起きているのかさっぱりわからなかった。冷たい岩、氷に押し付けられているような冷たさの中、男の熱い呼吸が私の額を撫でた。捕食者の眼をしたカーズは腑に落ちないというような声を漏らして、更に私を抱きしめる力を強めた。
一体、何故、この宇宙人に、変態に抱きしめられているのだろう。しかも相手は何故意味が分からないというような反応をしているのか。
暫くそうして抱き合ったままでいると、男は私の首根っこを掴み持ち上げてその場に落とした。


「痛っ!」


どしん、と冷たい土に尻餅をついた。痛みに腰をさすりながら、長身のカーズを見上げる。
腕を組んで顎に指をかけ、まるで動物を眺めるように見下ろす。自分の庭に入った野良猫を、いるなら見てやろうかというような片手間を感じるその視線に、私は蛇ににらまれた蛙のように固まって見上げ続けていた。


「・・・女、貴様は明らかに仲間ではない事は明白。人間だという事もわかる」
「仲間って・・・」
「このカーズ、いくら空腹だからといえ、いくら食べていない期間が長いとはいえ、何も考えない時期が長かったとはいえ。よもや食事方法を忘れるなんてことはありえないことだ」
「あの・・・」
「だが、今貴様を咀嚼してやろうとしたが、全くできなかった・・・まるで枯れ木を抱いているようにまったく入らん・・・」
「か、枯れ木・・・」


米神に人差し指を立てて小首を傾げる男、カーズに対して震えは収まった。どうやらこの男は私を思い切り舐めてかかっているようだ。それならばそれに越したことはない。ゆっくりと熊手を使って立ち上がる。
膝に手をあてて身体を伸ばすと、曲がった身体の内部で巡っていた血流が一気に解放されて早く身体を駆け巡る。
一気に熱くなり、少しくらりと眩暈がした。
カーズは暫く私を見つめた後、おもむろに両手を広げた。まるで飛び立つ前のような、威嚇するような鳥のように広げた。


「・・・」
「・・・ふむ」


カーズはゆっくりと上げた腕を下ろして私の肩をがっしりと掴みあげた。とても大きな手だった。
ごくり、と、真意の見えないカーズの瞳を見据える。男は真顔で溜息を吐いた後、人差し指を立てて、くい、と玄関を指差した。


「いれろ」
「・・・・は・・・」


お茶を出せ、と、こうも横暴に要求されることがあるなんて思いもしなかった。
でもこんな裸の男を、冬の夜に放り出すという選択肢を抽出するには、私は寒がり過ぎただけだ。





だがカーズはお茶を一滴も飲まなかった。それどころか横暴にも外にいたままの足の裏で堂々と家の中に入られて慌てて廊下を拭いて男の背にタオルを投げつけた。


「せめて拭いて!」


リビングでがっくりと肩を落とした私は、仕事帰りに家に帰ると、変な隕石が落ちてきて変な男に絡まれてお茶を出すという苦行を強いられ心身ともに疲弊していた。
我が家の広間は畳で、部屋の真ん中に炬燵が設置されているが、カーズはその炬燵に腰掛け、足と腕を組みキッチンの椅子に座った私にぺらぺらと事情を話していた。


「柱の男・・・イタリア・・・宇宙・・・はあ、もう・・・ちょっと駄目よ、色々ありすぎてあんまり入らない」
「女、貴様殺されないことを感謝し、死ぬ気でこのカーズの話を拝聴しろ」
「そんな事言われても・・・いや、そっちこそ感謝しなさいよ! 完全に露出狂として逮捕されても文句言えないんだからね!」
「それにしてもこの建物、恐ろしく狭いな。家畜小屋か?」
「そりゃ宇宙で遭難していた貴方からみたらそうなんでしょうね!」


あーまったく嫌な奴だ。と、万単位年上のカーズに舌をべろりと出してやけくそに叫ぶ。
長らく宇宙を放浪したせいか、聞いてもいないのに自分の身の上話をし始めたのは、興味があったから乗り気で聞いていたのだけれど、あまりにも波乱万丈すぎてうまく理解することができない。暫く時間を空けてゆっくりと噛みしめたいものだ。
柱の男だの波紋だの、明確な善と悪が確立されていて、しかもこの眼の前で炬燵に腰掛けている彫刻のような巨躯の男は人を食べる究極生物だという。
その究極生物は宇宙に放り出され、死なないように身体を構築すると地球に戻れず宇宙をさまよう事になった。死にたくても死ねない状況で思考を止めた彼がどれほどの月日を体感していたのかは知らないけれど、今この地球に落ちて久しぶりに自らの肉体を動かしたカーズは、食べ方も飛び方も力の入れ方も忘れかけているのだという。
先ほど、抱きしめられたのは私を吸収しようとしていたらしい。本当に、と、顔を手で覆ってがっくりと肩を落とす。安堵やら怒りやらでごちゃ混ぜになりながらも、私を見据えて舌舐めずりをする男を前にただ落胆しているわけにもいかないと顔を上げる。


「暫しの雨宿りといったところか」
「今すぐ出て行ってください」
「この寒空の下、服も着ていない男を放り出すのか? ふふ、いい趣味をしているじゃあないか」
「貴方ね」
「断る。もうすぐ夜明けだ・・・久々の地球の重力にも辛いものがある」
「そんな筋肉たっぷりあるのに」
「ただの飾りだ」
「それ服なんじゃ・・・」
「そうか、ならば好きに放り出せ。近隣住民にこの家を指差し、土産話を持ち込んで雨避けになってもらうまでの事だ」
「えげつない究極生物!」


大体究極生物ってなんなの。と、ぶつぶつと言いながらお風呂を入れに行こうとすると、究極生物に腕を掴まれた。びくりと驚いて振り向いた。


「どこへ行く下僕」
「なんで下僕決定なの」
「まだ貴様の名を聞いていないからだ。名乗らないのなら下僕で突き進むぞ? ん?」
「・・・です」
「そうか、下僕よ色々と情報がほしい。何か話せ」


名乗ったのを後悔しつつも、私は話せと言われたので何か話そうと考え込んだが、やめた。外は雪が降ってもおかしくない寒さで空気が軋んでいる。こんな寒さの中で何か話すなんて事はできそうにない。
頭の回転が遅くなる。致し方ない事だと沈黙していると、熱い湯のみがぴしり、と罅が入り、お茶が机にこぼれた。
まるで自然に入ったように罅割れた湯呑に視線を釘づけにされていると、巨体の男が立ち上がる様子を一拍遅れて気が付いた。
ウェーブがかった黒髪が揺れ、私の喉元に人差し指を突き立てた。


「っ・・・!」


僅かにのけぞる。椅子の背もたれに腰がぶつかり、肘をついて更に背を撓らせる。
息を止めて筋肉の塊の身体の威圧感を感じながら、ゆっくりと、小さく息を吐き出した。
カーズの指はそのまま私の喉を突き刺すことはなく、つい、と鎖骨まで撫でるように滑り落ちた。


「聞こえなかったのか? 話せと言ったのだ」
「・・・う・・・」
「舌がもつれて話せないのか? ならばほぐしてやろうか? そこにある刃物で」
「は、なします。何でも話します! 話しますから!! 離してください!」


とん、と鎖骨から指が離れた。はあ、と溜息を吐いて背後の椅子を動かして腰掛けた。そして暫く黙り込んだあと、またギラリと視線を光らせたので慌てて口を開いた。
とりあえずここが日本の北の部分にある県のど田舎の村で、私はバイトをしていて、両親が旅行でいなくて、物価が高騰しただの、総理大臣がころころかわるだの愚痴交じりに色々話していると、時計の針は一回と半分ほど動いていた。
カーズはすっかり黙り込んで私の身の上話を聞き終えて、私が一呼吸入れた瞬間頬を指で挟みこみ、まるで突き刺すような力を込めて頬を押しつぶした。


「貴様の昔話など毛虫の毛ほども興味がない」
「ひゅいまへん」
「昔、一度起きたときに聞いた話だ。日本人は奥深く遠回りに話を進めるとどこかの書物に書いてあったのだが……ん? 貴様は何なのだ? このカーズが、貴様の言語を用いて会話をしてやっているというのに、何故、質問に簡潔に答える脳みそが付いていないのだ? この私がいつ、貴様のくだらない情報を吐露しろと言ったのだ?」
「いっへまへん」


そうだろう? と長い髪の毛を垂らしながら屈みこみ、睨み付けるでもなくただ見つめているだけで威圧感を飛ばすカーズに、私はほぼ涙目になりながら頷いた。
だがしかし、この男が求めている現代の一般的な情報は、いかんせん説明できる頭がないのは確かである。
当たり前のように享受して生活しているけれど、その原理やら歴史やらを完璧に知って、人に説明できるほど知識に浸りこんだわけではない。
むしろ、冷蔵庫の構造だとか車の構造だとか歴史だとかよりも、宇宙をさまよったカーズから是非話を聞きたいという輩がこの世界にはごまんといるだろう。この地球の全てをさらけ出し、蜜柑の皮の裏側の秘密までひけらかす程、宇宙とは人類にとって無限であり神だ。
宇宙という残滓漂う眼の前の男に、私はろくすっぽこのちっぽけな地球を説明することができない。
地球以前に、私自身を説明することも難しい。まあ、カーズに言わせてみれば人間の女、と一言で片づけられるのだろうけれど。
とりあえず私の頭経由口行きの道順じゃ大混雑してしまうので、簡素な出入り口として学生時代の教科書を持ってきた。
二階の押入れの中に入っていた私の青春時代の名残が埃をかぶっていたので、窓を開けて埃を払った。咳こんでしまったが、これで何とかなるだろう。
これを読んでくれれば暇つぶしになって私の手もあくだろうと、さっさとお風呂に入ってしまおうと踵を返したが、カーズは私の手首を掴み引き留めたので、がくん、と首が背後に撓って歩みが止められた。


「今度は何ですか・・・」
「読め」
「えっ」
「文字は分からん」
「そんな馬鹿な・・・」


馬鹿という言葉に反応したカーズが、伸ばしっぱなしの爪で喉を引っ掻いてきたので慌てて本を開いて朗読した。まったくなんて拾い物をしてしまったんだろう。そろそろ警察やら人やらが来てもおかしくないのに、その気配が全くないところを見ると、おじいちゃんおばあちゃんは夢の中で、あの威力の弱い隕石の存在に気が付いていないのかもしれない。
それはそれで悲しいなあ、と、溜息を吐いて近くの椅子に腰を下ろして、睡魔と闘って本を読んだ。





人に本を読み聞かせるなんて何年振りだろうと思ったけれど、国語の授業でよく読めと言われた事があるなと思い出した。けどそれは人工呼吸をキスとカウントするようなもので、こんな家の中でほぼ裸の大男に社会の教科書を読むなんて、まったく一般的ではない。
国語、社会、理科、英語は私が読まなければならなくて、でも数学だけは自分でいろいろ読んでいた。
ああ、これでやっとお風呂に入れると立ち上がった時に気が付いた。もう夜が明けていた。外は白々しい空気をまとった冷たさが冷ややかに背伸びをしていた。
お風呂から上がり、とりあえずバイト先に連絡する。インフルエンザにかかったと言っても差支えない非常事態なのだけれど、後々面倒なので熱、咳、腹痛という古典的な症状を訴え、こんな時にしか発揮されない演技力を駆使して電話を切った。


「ねえ、カーズさん。これから一体どうするの?」


お風呂でさっぱりと眠気と戸惑いを洗い流した私は、友人のように話しかけた。
カーズは教科書朗読でなんとなくのパターンを覚えたようで、自分でじっと教科書を見つめていた。話せる言葉だとはいえ、それを文字にして読むって中々大変な事だと思うけど、自分を天才だとかふざけたことを言うだけあって、頭がいいのだろう。


「とりあえず食事ができるまではここでじっとしておこう」
「ふうん・・・」
「すぐに食べれるものがある方がいいだろう」
「ちょっと待て」


この人何とんでもない事を中原中也の詩を読みながら言っているんだ。口端がひくつくがカーズは顔を上げることはない。当たり前の事を当たり前に言っただけだった。
その時がきたらすぐに逃げよう。と、カーテンを開けて日の光を室内に取り入れると、背後から虫が潰れたような音がした。


「え?」
「な、何故だ! 一体どういう・・・!」


カーズが顔を押さえて俯いている。日の光が差し込んだその瞬間、日の光が身体に当たった瞬間だった。まるで塩酸をかけられたような反応をしたカーズに戸惑っていると、カーテンを閉めろと叫ばれ、慌てて閉めてかけよった。


「何、ど、どうしたの!?」
「ぐぅ・・・」


ほんの数秒後、顔を上げ、苦虫を噛み潰したような顔をしたカーズの皮膚が蒸発するように湯気を放ち傷が治っていく様子が至近距離で見れた。こんな光景お目にかかる事はない。
すさまじい回復力、と一言で片づけていいのだろうか。宇宙から来たが本当は地球生まれと言っていたけれど、私にしてみれば宇宙人も等しい。
日本生まれでも、ずーと海外で暮らしていたらそれはもう外国人と等しい事だ。同じ人種でもカルチャーショックを覚えれば、それはもう隔たれたも同じ事。
この真冬で暖かい部屋とはいえほぼ裸のままで過ごしていて、温かい日差しをと思ってカーテンを開けた途端、焼かれたような肌。そしてすぐにそれが修復される。


「・・・こ、怖い・・・」
「怖がっている暇などない。クッ、エイジャの力すら忘れてしまっているのか・・・忌々しい、また太陽に怯えて暮らすことになろうとは・・・」
「とりあえずもう寝た方がいいんじゃないですか? 私も寝ようと思いますし」
「24時間に一回眠るなど非効率的な事はせん」
「ええええ!」


そう宣言したカーズは本当に一睡もしなかったらしい。私が二階の自分の部屋に戻ってベッドにバタンキューと倒れてから数時間すると、カーズは私を叩き起こしてもっと書物を寄越せ、と、命令してきた。
腹が立ったので甘い少女漫画を叩きつけてやった後眠りこけていると、私は自発的に目覚めた。
階下に降りてリビングに入ると少女漫画をじーっと真剣な顔をして読んでいるカーズがいた。半裸の男が目がきらきらと輝く少女絵の漫画を読んでいる・・・。自分の家の中で行われているなんて絶対に信じたくないと、挨拶もせずに冷蔵庫に向かって麦茶を取り出して思い切り飲んだ。
ごくごくと音を立てて飲んだが、カーズはまったく微動だにしていない。


「・・・お、おもしろいですか・・・?」
「・・・中々興味深い」
「そ、そうですか・・・」


じーっと紙面に釘付けになったまま神妙な声でそう返事をされれば、私は何も言うことはない。静かに黙ってじっとしてくれているのならそれに越したことはないのだけれど、不気味な曰くつきの置物があるような不気味さを感じることは否めなかった。
いくら寝ぼけていたからとはいって、あんな少女漫画をこんな筋肉質の男に持たせるなんて・・・漫画じゃないけど、絵面を気にしておけばよかった。
私は暫く腰掛けてそんなカーズの様子を観察した。それにしても綺麗な男だ。彫刻に生命が宿ったと言っても信じてしまえるほどの肉体美。同じ人間とは思えない。人間ではないけれど。
頬杖をついて裸足の足を摺り寄せる。まったくなんでこんな事にと思いながら、こんな非常事態だからバイトも良心の呵責なしに休めるというもの。と、小さく笑う。
私を餌と見ている男に恐怖を抱かないわけではないけれど、道の生命体。森で拾った小熊を見るような、そんな好奇心に駆られている。爪を持っている事は重々承知しているけれど、興味がそれを押し殺させる。
それにしても、あの時私を抱きしめていたけれど、あれで今食べられない状況だってわかるのって、つまりあそこから食べるって事よね。口があるのになんで身体? もしかして、エイリアンみたいにあそこから食虫植物みたいに何か触覚みたいなものが開いて食べられるの?
怖い、本当に怖い。でも見てみたいような・・・


「おい」
「はいっ!」
「これは一体どういう事なのだ。人に建物・・・」
「・・・」
「男と女がいるのもわかる。だが・・・これは言葉ではなく暗号だな。一体何が書かれているのだ?」
「・・・えぇっと・・・」


どうやらいまどきのギャル語を話す主人公の漫画のようで、カーズはまったく理解できないというように、難解な異国の文字を追うように何度も何度も視線を行っては戻して行っては戻してを繰り返していた。
あんなに真剣にあんなにくだらない少女漫画を読むカーズという光景は見るに堪えないものだ。私が勝手に渡したのだけれど、それを棚に上げて今すぐにでも取り上げたい。国語辞典でも渡すんだった。
慌てて漫画を取り上げて六法全書を代わりにその手に乗せた。


「人間がいかなるものかわかりますよ、そっちのほうが」
「重みがあるな」
「歴史はありますね」
「ほう。聖書以上の価値があるというのか?」
「えっ、もしかしてカーズさんクリスチャンなんですか!?」
「そういうわけではない。ただ人間というものが神という存在に馬鹿みたいに神聖視しているという事がわかっただけだ」
「いや、神様なんだから神聖視するのは当然では・・・」
「ああ、確かにそうだな。いや、この場合の神聖視というのは都合のいい犬のようなものだ」


都合よく神様と追いすがるのが気に入らないのだろうか。カーズの話では自分が神のような存在になったような事を言っていたけれど、スケールが大きすぎてまったく共感できない。神を犬のように扱うなんて、そんなことをしているとはまったく感じないけれど。
朝からお隣のケンタロウは元気よく吠えている声が聞こえる。寒かろうが熱かろうが関係なく、振り切れんばかりに尻尾を振る犬の声を聴きながら、カーズは腕を組んで瞼を下ろして続けた。


「全て神のせいにする。奇跡が起きようがなかろうが神のせいにされる・・・まったく、人間というのは何とも屑だな」
「人間の私にそう言われても・・・」
「下僕、貴様は神を信じるか?」
「・・・えっと、ぶっちゃけ今カーズさんが言ったように、都合のいい時だけ信じてます」
「ほう」


ぶっちゃけすぎたかと、ギラリと輝く瞳を見て身体を固まらせた。
宇宙から落ちてきたとはいえ、カーズが神様とは思えない。むしろ神様になろうとしたけど失敗した人間・・・でもないのか。
だとしても、今こうして私が家の中にあげて、こうしてカーテンも閉じて六法全書を渡して暇つぶしをさせているこの状況は、神だから。と言ってしまえば片付くかもしれない。
こんな怪しい人間を家にあげるなんて正気の沙汰じゃない。しかもお風呂に入って、眠って、漫画まで貸してあげて。一体何を考えているのだろう私は。そう、相手が神様だから。私の意識なんて狂って当然なのだ。
自分を見失いそうな行動は全て神様に起因していると思うようにしている。ふと寒い朝目覚めたとき、バイトに行きたくないという感情が吐き気のようにせりあがってくるとそのまま二度寝してしまう時も神様のせいだと言えば、罪悪感がなくなる。


「それは何故だ?」
「先ほどカーズさんがおっしゃったとおりです。はい」
「なるほど。無駄のない答えだな屑」
「下僕から降格してる!」
「だが、神はお前たちなど屑として見ている。ほんのカス、ゴミ箱の中の消しカスのようなものだ」
「とにかくカスなんですね」
「そんなものに一々眼をかけてやることなどまれな事だ」
「・・・つまり、神様は職務怠慢しているという事ですか?」
「違う」


六法全書をぱたりと閉じて私の鼻先に角を突きつけてくる。


「もともと神などいないのだ。貴様らがそういう相手は存在しない。サンドバッグを神と崇めているのだ」
「じゃあカーズさんは一体何ですか?」
「究極生命体」
「カーズさんは神様になりたいんですか?」
「ふむ、愚問だな。神という存在を信じているわけじゃあない。だが、神という概念に等しい存在になりたいとは願うな。太陽の下を堂々と歩けるように、無敵にはな」


温かい日差しを浴びるなんて、人間じゃなくてもできることだ。犬だって布団だって簡単すぎる事。それが神様になる理由の一つというのは、何とも複雑な心境だ。
神だのなんだの、こんな風に言う人初めて見た。
まあ、宇宙から落ちてきた人ももちろん初めて見たのだけれど。
暫く沈黙が続いた後、私はほう、と息を吐いた。室内なのに少し白く凍えていた。


「じゃあ私は無敵ですかね?」
「太陽相手だけなら無敗だろうな」
「えへへ、羨ましいですか?」
「食さずとも、貴様を殺す事など簡単にできるのだぞ、屑が」
「すいませんでした!」


眼光すさまじく指を折って骨を鳴らすカーズに勢いよく頭を下げた。ぼさぼさの髪の毛がばさっ、と前に垂れる。
人のコンプレックスに簡単に触れてはいけないという事は分かるのだけれど、それが一体何なのかわからない所が人生の辛いところだ。こんなに美しくて強いのに、太陽に勝てないなんて世の中つり合いがとれている、という事なのだろうか。
私のこの田舎にも、何かつり合いがとれる事柄が何かあるのだろうか。


「私を食べる食べないは置いておいて、食べなくちゃ死にますよね? 大丈夫なんですか?」
「死にはせん。眠りまた人間が煩く騒ぐときに起きればいいだけの事だ」
「人間が騒ぐってここらで? そんなのいつくるか分からないですよ」
「いつかくるだろう。適当に起きればいい」
「一人で眠るんですか?」
「貴様も一人で眠っていただろう」


こんな偏狭な北のど田舎に人間が来ることを思って眠りにつくような悠長な思考は持っていない。そんな長い間、意識はないとはいえ眠るのは怖い。大体眠るってどこで寝るんだろう。もしかして土の中? 蛙みたいだなあ、って言うと絶対殺されるだろうから思うだけにとどめておいた。


「家で寝るのと知らない場所で眠るのは違うでしょう」


ぽろりと失言のような言葉を零すと、カーズは鼻で笑った。そして六法全書を机の上に置いて私を手招きした。
知らない男に手招きをされてほいほい近づくのは頭のネジを雪の中に落とした馬鹿な女なのだけれど、もうすでに一つ屋根の下で眠ってしまっているので、見知らぬ仲、というには、私はカーズの話を聞いてしまったし、カーズも私を殺すと口先だけの殺意を出し過ぎた。
傍に近寄って腰掛けた。机を挟んだカーズはソファーに座っていて、私もソファーに座っている。同じものに座っているのに、カーズが座るととても小さく見える。


「食事とは何だと思う?」
「生きる事に必要な事だと」
「肉体的に?」
「精神的に」
「貴様を食べたいと思っているのだが、こころよく明け渡してくれるのか?」
「それはできない相談ですね」
「相談ではない、単なる質問だ」
「・・・お腹すいてるの?」
「いや、今までこの方空腹を感じたことはない。単に食欲が働くというだけの事だ」
「それがお腹がすいているという事なのでは・・・?」


カーズを家に招き入れた理由を簡潔に説明すると、見た目がよかったのと単なる好奇心だった。それが宇宙やら柱の男やら、わけのわからないストーリーを寝る前に聞かされて、困惑と好奇心がむくむくと成長した。
仄暗い部屋は相手のせいだった。カーテンは閉め切られ、視覚によって寒さを感じる。
一つ屋根の下でほんのわずかに警戒心の綻びが生まれた後、自分の欲求に対して希薄だったらしいカーズの、少し眼を見開いた表情は何というか。穴を掘っていたら綺麗な石を見つけたような気分になった。
この人は、人なのかわからないけれど。満足感というものを知っているのだろうかと思った。





六法全書に続いて国語辞典、漢和辞典、英和辞典など、学生の頃活用した分厚い書物をカーズに与えた。私が寝ている間にその角で頭を殴る可能性も無きにしも非ずだったのだけれど、それはそれでいいかもしれないと思ってしまった。
ほんの一日、二日日足らずで、私はカーズを見つめ続けることを決めた。バイトも休み、親との連絡もおざなりになった。
檻の中にいない猛獣。触れ合える距離、会話という意思の疎通。書物に書かれていない未知の生物。サボったバイトよりも価値がある。
かといって、生物に対してそこまで意欲的なわけではない。かわいい猫を見て頭を撫でたいなとくすぐられる程度だ。
二階の本棚から家庭の医学も持ってきてカーズの眼の前に本を積み上げる。まるで餌付けのようだった。知恵をカーズは食べている。


「珍しいものをたくさん持っているな」
「普通だよ、貴方からしてみれば珍しいだけだと思う」
「狭い家だと思ったが、中々面白いものがある」


カーズは活字を好んだ。私が食べていたタコ焼きなんて目もくれなかった。あんなにおいしそうな香りを漂わせていたのに。まったく食欲が沸かないなんて、やっぱり生物的に違うんだと、歯に青のりをつけたままぼんやりと思った。
父も母も本を読むけれど、カーズみたいにずーっと集中するような読み方はしない。食べるものがない、食べることができないカーズは、長い間あけてきた地球に生まれた文学を貪り続けていた。
なので、私もできる限り持っている本を明け渡すことにした。まったくもって共感できないだろう本があったのだけれど、少しカーズは興味を惹かれていた。


「すべての人間の代表というわけじゃあないのは分かる。だが、これに共感するという事は、根本的には大して齟齬はないのだろうな」


それもどうだろう、と、ココアを飲みながら聞いていた。足先が冷たくて摺り寄せながら、カップを両手で包み込みながら口をつけていた。カーズはこうしてぽつりと何かを呟く。それを拾い上げる私は、もしかして人間に歩み寄っているのだろうかと、未知の生物、たこ焼きに眼もくれない空腹の生物に対して思うのだった。
洗濯物、お風呂掃除、空気の入れ替えなど家事を色々やっていた。一番楽なのは食事を作らなくてもいい事。私一人だけなので簡単なものですませられるのだけれど、眼の前に人がいる中で一人だけ食べるというのは何とも味気ないものだ。
食事は一緒に取りたいって思うけど、カーズの主食は人間や吸血鬼というし、おしゃべりには最適な食べ方をするけど眼によくない。
一日中殆ど家の中でカーズとああでもないこうでもないと言いあっているとまた夜が来た。
カーズはカーテンを開け、結露で見えない窓を開けた。ひゅう、と、温めていた室内に冷たい風が滑り込み震えた。


「カーズ」


究極生物をあっけなく呼び捨てにできるには、長い間しゃべりすぎた。
カーズにとってはほんの瞬き程度の時間なのかもしれないけど、茫漠とした時間を過ごしている私には、果てしなく長い旅を終えたような気分になっている。
ざわり、と、森がさざめく。気分が悪いように黒々と揺れている。凍てつく寒さがカーズの素肌をまとわりついているのに、カーズは白い息すら吐き出さずに佇んでいる。鳥肌が立った。


「行くの?」
「いけるかどうかわからないがな」


片腕を軽く上げた。数秒の沈黙の後、その腕から白い羽が生えた。


「っ・・・!」
「ふむ、やっと馴染んだか」


満足そうに自らの腕を見つめるカーズに、私は足が竦んだ。背筋を伸ばした時のように、固まった身体をほぐすように、カーズの腕は鳥の羽からタコの足に変わった。だからたこ焼き食べなかったのかと思いながら、私はつっかけをひっかけて傍に寄った。


「す、すごい・・・何これ・・・」
「怖がったり興味を持ったり、貴様には一貫性がないな」
「あるわけないよ、人間だもの」


触ってみても? と問いかけると、当たり前のように払いのけられる。最後の最後まで頭を撫でることを許さない気高き究極生命体カーズは、夜のうちに行動するらしい。この狭いボロい家からおさらばするようで、私としてみれば、怪我をしていた鳥に情がうつってしまったように、ほんのわずかに、心に隙間風が入り込むのを感じていた。


「じゃあ、写真とっていい? 残しておきたいの」


慌てて家の中に戻ってデジカメを持ってくると、カーズはジッとそれを見つめた。


「カメラか?」
「そう」
「ふん、まあいいだろう」
「え、いいの?」


じゃあ遠慮なく、と、構えてボタンを押した。フラッシュが焚かれた。カーズが光に照らされて映っていた。
その画面を見つめながらカーズに問い掛けた。


「それで、行く当ては?」
「さあな。とりあえずヨーロッパまでは行かねばならん。過去に残した何かがあるかもしれんからな」
「そう、長い旅になりそうだね。本何かあげようか?」
「まあな。だが、そう暇にもなりそうにない」
「え?」


カメラから顔を上げると、ニィと笑みを浮かべるカーズがいた。私は直感的に背後へ後ずさって家の中に逃げ込んだ。
窓を閉めてカーテンを閉じた。ぶるり、と、温かいリビングの中で身震いをした。
好奇心に警戒心を懐柔させた罰なのだろうか。カーテンを更に握りしめて閉め切って、慌てて二階へ駆け上った。寒くても空気の入れ替えをしなければならないと、畳の部屋の窓を開けていたのだ。
そこへいくと外の冷たい空気が足元で渦を巻いて私の足首を絡め取る。窓枠には爛々としたカーズが足をかけていた。
思わず引き攣る笑みを浮かべて呟いた。


「ああ、神様・・・」
「ああ、私が神だ」


そういう事じゃなくてね。と、言う前にカーズの腕が文字通り伸びてきて、タコになって私の身体をぐるぐる巻きにして引っ張り出した。
外は寒い、せめてコートを。と、思ったけれど、カーズの冷たい身体に引き寄せられて声が出なくなった。


「ひっ・・・」
「俺の食事は吸収するだけだ。変な触手や歯を出したりはせんぞ」
「待って、待って待って!」
「下僕よ」
「待って! この家明け渡すから食べないで! 本もあげる! 辞書も炬燵もあげるから!」
「今日はお前の両親が帰ってくるのだろう? ならば俺をどうした?」
「・・・お、お帰り願いたく・・・」
「だろうな」


でもそれは違う。そう言いたかったけど、別に嘘でも本当でもない。出て行ってもらわないと困るけれど、出て行ってほしいわけじゃなかった。楽しいお友達、珍獣。物珍しさの中に情が朝靄のようにあたりを包み込んで、深い森すら覆い隠してしまう。真実は木々を掻き分けて私の前に姿を現す。それを眼を閉じて見ないふりをしていた。
カーズは飛んだ。私も飛びそうになった。長く住んでいた我が家が下に見える。まさか家を見下すことになるとは思わなかった。この先象とキリンを見下ろす事もそうそうないだろうと漠然と思っていたけれど、まさか我が家を、と、眩暈がした。


「カーズ、ちょっとドライブするだけよね?」
「車などどこにある?」
「ほら、下の方に・・・私の車が・・・」
「用意してやろう」


その言葉と遠ざかる家を見て、私は暴れるべきか迷った。だが、ここで暴れても何の解決にもならない。カーズの餌はなくなり、私の思考は止まるだけ。家族にも迷惑をかけてしまうけど、このままでも十分に迷惑がかかるのは分かっていた。
説得、できるだろうか。白い息を吐きながらカーズを見上げ、顎に吐息を吐き出した。
カーズの瞳がこちらを見やる。


「いい恐怖を味わっている顔をしている」
「きょ、恐怖にいいも悪いも・・・」
「ある。貴様にはそれを教えてやろう」


港町に連れて行って、鮮度のいい魚があるお寿司屋さんに連れて行ってやるみたいな感じで言われても。私の家はどんどん遠ざかってくるし、どんどん体温は冷え込んでくるし、カーズはまったく温かくないし。


「とりあえず落ち着きましょう。ね、ほら、あそこ。あそこの喫茶店なんかいいんじゃない? 珈琲おいしいよ」
「残念ながら、私は珈琲は飲まないんでね」
「あああもう! 怖い! 高いところも貴方も怖い! 下ろしてってば!!」


どんどんと遠慮なく胸を叩くと、カーズは何を思ったか私の唇に噛みついてきた。ばくり、と食べるように口を開けて私の唇を噛んだ。
ねっとりとした舌が私の唇を割ってこようとしていたけれど、そこは頑なに守った。
暫くして顔が離れる。寒さで顔よりも鼻が赤くなったままの私は純粋な疑問を持った。


「なんで唇だけそんなに熱いの・・・?」
「舌なめずりをしすぎたせいだな」


ずっと捕食するのを待っていた。と、言った。くらりと眩暈がした。寒さに熱さに高さ、そして不明瞭な思考に好奇心よりも警戒心が優っていた。学習能力が際限なく働きっぱなしで、いつしかショートしてこの男にいいように飼いならされる気がする。


「神様お願い、家に帰してください」
「俺は都合のいい神にはならない」
「じゃあ神様は何をしてくれるのよ」
「統べる事だけだ」
「じゃあ私はいらないでしょう」
「いいや」
「お願いだから見逃してよ、本を見せてあげたり読んであげたのに」


恩を仇で返すとはこのことだと言わんばかりに説得するが、カーズは意に返さず飛び続ける。


「俺には昔仲間がいた」
「うん、聞いた」
「だがもういない。エシディシもワムウもいないのだ」
「・・・うん」


同じ種族の人間がいないというのは、とても悲しい事だ。家族を亡くす以上に衝撃はあるのだろう。家族がいなくなっても人間がいなくなるわけじゃない。カーズはこの寒空の下、これからをどうやって生きるのか私に話してくれた。


「究極生命体となって世界を制圧する力を持つことを知れた。だが、このカーズ一人だけではどうにでもならない非常事態が起きることもある」
「はあ」
「その時に必要なのが仲間だ」
「・・・わ、私は戦えないよ!? 権力もないよ!?」
「そんな事はあの家畜小屋のような家を見ればわかる」
「私の歴史全否定だね!」
「まだわからないのか?」


カーズが呆れたように私を見下ろす。びゅうびゅうと風が頬に当たる。もちろん、分かっている。そんな恐ろしい想像はしたくないけど、先ほどの熱烈な舌の動きに下腹部が疼いたのは事実だ。
私の冷たい頬とカーズの冷たい肌がぴたりと重なる。冷たすぎて感覚がなくなってきたのに、じわじわとそこから熱が生まれる。そして熱を欲して私は更に頬を寄せる。面積が増える。熱が広がる。腕を回す。そこからもまた熱がカーズの身体を覆っていく。


「諦めろ、神の前だぞ」


ククク、と笑ったカーズに私は言われた通り諦めた。もうどうにでもなればいい。それに私はあなたの事嫌いじゃないから。だからそんなにスピード出さないでほしい。もっとゆっくりドライブを楽しみたいの。そこの喫茶店で珈琲をちびちび飲みながら、机に突っ伏して眠ってもいいんじゃないの? それが駄目なら炬燵がない所に絶対に行かないでよ、神様。






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